令和 3年11月28日(日):初稿 |
○「”日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか”紹介1」を続きで、2021/8/18発行「日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか (新潮新書)」の紹介を続けます。アメリカが、日本に対し、焼夷弾による無差別絨毯爆撃を繰り返し、結果として原爆被害者も含めて46万人もの民間人を殺戮した理由について、戦争になったら全国民が戦闘員であり、一般国民が戦闘に巻き込まれて焼き殺されても仕方がないとの思想があったことを説明しました。 ○そこに至ることに好都合だったのは、日本軍も1938年から5年間に渡って中国重慶に焼夷弾を使って200回以上も空爆を繰り返して1万人以上の犠牲者を出し、これが都市に継続的な無差別爆撃を行った史上初めての例として、国際的な非難を浴びたことでした。この重慶爆撃の惨状がアメリカ国内に伝えられ日本への爆撃も当然という空気が醸成されていったとのことです。日本が先にルールを破ったのだから、日本への無差別爆撃は、許されるとの風潮になったようです。 ○第8章「空爆はなぜ2000回にも及んだか」では、昭和45年6月17日鹿児島市街地に100機をこえるB29が飛来し、大量の焼夷弾で2000人以上を殺戮し、この日を境に無差別絨毯爆撃は、地方の小都市にも向けられ、最終的に昭和45年8月15日終戦まで日本本土への空爆は約2000回、ほぼ全ての都道府県が攻撃対象となり、爆撃された地域は237カ所、投下焼夷弾数は約2040万発、原爆を含めて約46万人が犠牲となったと説明されています。 ○この無差別絨毯爆撃は、アメリカ空軍独立の野望を掲げたアメリカ陸軍航空軍が、その夢実現のために、想像を絶する規模で無差別殺人と言える空爆に手を染めていったためとのことです。これに対し、アメリカのイメージ低下を心配した軍人も居たようですが、結局は、日本降伏による戦争終結のため、航空軍によって原爆まで2回に渡って使用され、日本を徹底的に壊滅させました。原爆投下により数十万の日本人に死をもたらしたが、それによって無差別焼夷弾爆撃が止められたなんて言い訳もあったようです。 ○焼夷弾であろうと原爆であろうと無差別殺戮には変わりませんが、アメリカ軍の考えは、戦争終結のためには、正に、「何でもあり」の状況でした。ルメイ将軍の言葉として「原爆がなくても日本は降伏しただろうが、それがいつになるか分からなかった。原爆を投下したことで明らかに戦争の終結が早まった。その観点から、原爆投下の意味があった。将来の死を救うために、今、人を殺す勇気が必要だった。」と紹介されていますが、正に戦争は人を狂気にし、倫理観を消滅させる示しています。将来の殺戮を防ぐため今殺戮の行うというものですから。 ○日本全土への無差別絨毯爆撃・原爆投下等で日本を降伏に追い込んだ功績が認められ、アメリカ陸軍航空軍は、戦後の昭和47年に「アメリカ空軍」として独立を果たし、航空軍を率いたヘンリー・アーノルドは、退役後でしたが、議会の承認を得て空軍元帥に昇進しました。焼夷弾による無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイは、終戦から16年後の昭和41年に空軍トップの参謀総長の就任し、おまけに退役直前に日本から「航空自衛隊育成協力」を評価されて勲一等旭日大綬章を授与されています。 ○100年あまり前に小さな組織から始まったアメリカ空軍は、並ぶ存在のないスーパーパワーに変貌し、戦争に勝利した後、被害を生んだ攻撃を検証し反省することなく、勝者は、自らの理屈を正当化し、悲劇を引き起こした戦略を連綿と受け継ぎ、空軍将校246人が残した肉声の中には、反省の言葉は一つも聞かれなかったと結んでいます。戦争は長引けば長びくほど倫理観は失われ凄惨さを増すもので、このような非情の国に戦争を挑んだ日本が愚かだったと言うことは、正に後の祭りです。アメリカと戦うと「緒戦は優勢ながら、徐々に米国との産業力、物量の差が顕在化し、やがてソ連が参戦して、開戦から3~4年で日本が敗れる」との見通しもあったのですが。 以上:1,669文字
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