令和 2年 8月19日(水):初稿 |
○令和2年6月25日初版が発行された猪瀬直樹氏著「昭和16年夏の敗戦-新版」の同年8月10日発行第3刷を読んでいます。1ヶ月半で3刷まで発行されているということは結構売れているようです。その原版は、「書評『昭和16年夏の敗戦』猪瀬直樹」に「猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』は、大日本帝国が太平洋戦争へと歩みを進める最中、「総力戦研究所」に集った壮年のエリートたちが行った「戦争シミュレーション」を丹念に描いたノンフィクションだ。」から始まり、詳しく解説されています。 ○令和2年からは10年前、中央公論平成22年10月号に著者猪瀬直樹氏と政治家石破茂氏の対談が「『昭和16年夏の敗戦』の教訓」との表題で掲載されています。以下、その備忘録です。 ・昭和16年太平洋戦争開戦の年の4月に当時の帝国政府が「総力戦研究所」という機関を立ち上げ、30代後半の精鋭が集められ、大蔵省、商工省のエリート官僚、陸軍省大尉、海軍省少佐、日本製鉄、日本郵船、日銀、同盟通信(後の共同通信社)の記者まで総勢30人が、もしアメリカと戦争したら日本は勝てるのか、そのシミュレーションをした ・大蔵官僚は大蔵大臣、日銀出身者は日銀総裁、記者は情報局総裁というように、それぞれが役職について「模擬内閣」を作り、出身の官庁・会社からできる限りの資料・データを持ち寄って検討した結果の結論は、「緒戦は優勢ながら、徐々に米国との産業力、物量の差が顕在化し、やがてソ連が参戦して、開戦から3~4年で日本が敗れる」というものであった ・石油の殆ど無い日本が、日米戦争を継続するポイントは「インドネシアの石油」で、ここを押さえて戦艦を動かし、燃料を本国まで運ぶことが絶対条件であったが、研究所は「石油を運ぶ商船隊が、ほどなく米軍潜水艦の攻撃を受けて、補給路が断たれる」とシミュレートし、実際、2年後に輸送船が壊滅的打撃を被り、翌年全滅し、研究所シミュレートどおりになった ・平成16年8月下旬、このシミュレート結果が近衛文麿内閣に報告されたが、陸軍大臣東條英機が「”日露”がそうだったように、戦争はやってみないと分からない」として、葬り去られ、「模擬内閣」はあえなく「解散」した ・石破茂氏談;「軍の論理」が、正当な判断をねじ曲げ、国の指導者達は「この戦争は負ける」と分かっていて、開戦の決断を下した。「文民統制」がきかなくなるとこんな悲劇が起こることを「総力戦研究所」の挫折は身をもって教えてくれている 以上:1,024文字
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