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私とテニス

平成16年 6月 1日(火):初稿

私のテニス歴は、中学1年の昭和39年東京オリンピックの年に軟式庭球部に入部して以来ですから、平成16年で何と40年になります。と言っても、40年間ずっと「中途半端」であったため、腕前の方はサッパリです。

持って生まれた虚弱体質のためしょっちゅう病気ばかりしていた中学時代は、軟式庭球部活動も1年間持たず、おそらく1年生の秋には退部していました。そのためか、中学時代のテニスの記憶は余りありません。

昭和42年高校入学と同時に気仙沼高校硬式テニス部に入部しました。今ではとても考えられない厳しいクラブでした。正月、お盆時期3,4日程以外は、土日も含めて休み無く練習があり、1年生4月から10月までの6ヶ月間、放課後練習開始と同時に、毎日4㎞から7㎞のランニングが日課でした。日曜日はマラソンコース11㎞を走らされました。テニス試合に最も必要な持久力強化のためでしたが、このランニングは、持久力乏しい私には大変な苦役でした。

テニス部の練習は、原則、毎日、ボールが見えている間、夏から秋までは午後7時頃まで続きました。終了後1年生は、2面のコート隅々まで重量コンクリート製ローラー掛等のコート整備をして、着替えて学校を出るのはいつも午後8時過ぎでした。当然、お腹がすくので、校門前の「新茶屋」と言う駄菓子屋で、牛乳と一面角砂糖をまぶしたシュガーパンを買って食べ一息入れて帰路につきました。この時の牛乳の喉越しの良さとシュガーパンの甘さを今でも良く覚えています。

高校から家まで徒歩片道40~50分で、いつも家に着くのは午後9時半を回っていました。中学3年の4月から虚弱体質改善のため朝5時起きで新聞配達を始めていたので、家に帰ると風呂に入って直ぐ床につきます。従って自宅での勉強時間が殆ど取れなくなり、毎朝4時に起きて1,2時間勉強して、新聞配達に向かう日々が続きました。

1年生も秋になると当初30名以上加入した部員が10名前後に減っていました。2年生まで続いた部員は、皆3年生まで続くのですが、私は2年生の夏休み直前に退部しました。3年生からは顰蹙を買い、しばらく白い眼で見られ、校舎内で会っても知らんぷりされる程でした。私としては、中学2年から始めていたギターに本格的に取り組むための予定の行動で、ここでもテニスは中途半端に終わりました。

その後、しばらくテニスから遠ざかっていましたが、東北大学入学後は、体育でテニスを選択し、当時、宮城県テニス界の天皇の呼ばれていた小山又次先生のテニス授業を受けました。しかしテニス授業では、少しばかり経験のある私にとっては、腕前を上げるまでにはなりませんでした。

司法修習生になってから、又週に1回程度の草テニスを再開し、弁護士になってから弁護士会テニスクラブの幹事役を買って出て、たまたま知り合った本田浩二郎氏の指導を受け、鬼首高原、蔵王高原等で合宿などしました。
弁護士会テニスクラブをやめてから泉パークタウンテニスクラブに入会しましたが、余り練習に参加出来なかったので、平成7年頃から同クラブの年間面借りコートを借り、ツルカメテニスクラブと称して、保育園仲間を集めて、毎週土曜日の午前中に練習するようになりました。

それが平成13年からは、キリンテニスコート3面を面借りして、仲間を増やして、土日、祝祭日の早朝、練習に励んでいます。この仲間には大変熱心な人が多く、つられて参加しています。

振り返ると40年のテニス歴ですが、ずっと中途半端なままで、中身は20年もありません。
50歳過ぎたせいか、練習しても一向に上達せず、万年中級者の域を脱しませんが、テニスをしているときは、楽しくて仕方なく、身体が動く限り、続けていきたいと思っております。

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