平成20年 3月 7日(金):初稿 |
○「私が弁護士を目指した訳-そこに山があるから?」にも記載したとおり、大学時代を振り返ると大学3年時まで一番熱中していたものはフラメンコギターでした。私が、大学時代フラメンコギターに熱中した切っ掛けは、仙台の文理予備校時代での大学浪人時代の後半にたまたま当時駅前にあった日立ファミリーセンターで相崎勝利先生のフラメンコギター教室発表会を聞いたことでした。 ○10数人の門下生がフラメンコギターの独奏曲を演奏していましたが、当初、さほど大したことはないと思っていたら、門下生最後に登場したSさんという方の「シギリヤス」の演奏に度肝を抜かれました。指が物凄く速く動くと言う訳ではありませんでしたが、兎に角、胸に響くものがありました。フラメンコ用語で「ドゥエンデ(dueno de casa)」と言う「神秘的でいわく言いがたい魅力」を感じ取り、「凄い」と感激し、大学入学後の4月すぐに相崎フラメンコギター教室に入門しました。 ○大学3年秋までは毎週土曜日は欠かさず相崎フラメンコギター教室に通いパコ・デ・ルシアやヴィクトル・モンヘ・セラニートの難曲に挑戦しました。生来シャイで引っ込み思案な私は大学時代ずっと「彼女が居ない歴」が続き、デートなど全く無縁な生活をしていたため、休みの日は一日中フラメンコギターの練習ばかりしていました。 ○大学入学後、漫然といつかは司法試験に挑戦すると意識はありましたが、どうせ自分には無理だとの思いも交叉して、法律学の本格的勉強にはなかなか着手できませんでした。本格的に司法試験受験勉強を開始したのは、相崎フラメンコギター教室を休会した大学3年生秋以降でしたが、弁護士志向の最大のきっかけは自営業で普通のサラリーマンよりは少しはお金が稼げると言う点で、当初は郷里気仙沼で開業するのが夢でした。私の大学時代郷里気仙沼には弁護士が1人しかいなくて多忙を極め随分儲かっていると聞いたからです(^^;)。 ○「昔の弁護士は儲かる商売ではなかったはず」に記載したとおり、私が大学生時代の昭和40年代後半時期は、都会の弁護士は経済的にはさほど楽ではないと言うイメージでした。郷里気仙沼の実家の近所に親戚が東京で弁護士をやっている方がいて、弁護士になっても大変らしいなんて話を聞かされていました。 ○都会では弁護士が大勢いて余っているので大変だが、田舎では弁護士が少なく独立当初から仕事がありお金も稼げると言うことなので、頑張って弁護士になって郷里気仙沼で仕事をして親に恩返しをすることが私の当初の弁護士志望の一番の動機でした。また弁護士になれば自営業で誰にも縛られず自由に仕事が出来ると言うことも大きな動機の一つでした。 ○それが弁護士になり、確かに自由業の魅力はありますが、お金を稼ぐと言う面はそれ程成果が無く、これから大量弁護士増員時代で競争社会となることは確実で、どうやって食べていくか思案が必要と感じているところです。 以上:1,207文字
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