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郷里気仙沼の方々の世話を受けてきた我が弁護士稼業

平成24年 1月24日:初稿
○気仙沼市で生まれ、高校卒業の18歳まで気仙沼で過ごし、大学卒業後3年間にわたる司法試験受験勉強も気仙沼で過ごした私は、当初、司法修習終了と同時に気仙沼に帰り、気仙沼で弁護士稼業を行う予定でした。私が司法試験に合格した昭和52年当時、気仙沼は周辺合わせて10万人の人口に弁護士僅か2人だけで大いに不足と言われていたからです。

昭和58年頃借りていたアパート(マルダイビル)
○しかし、昭和55年4月、予定外に仙台で勤務弁護士となり、勤務弁護士をしながら気仙沼の仕事を受け、弁護士2年目にはボス弁の許しを得て毎週月曜日は気仙沼での仕事日として、日曜日の夜に気仙沼の実家に帰り、月曜日の夜まで気仙沼での仕事をしていました。昭和57年5月予定外に仙台で独立した後も、全体の3割近くが気仙沼の仕事のため昭和58年に至り気仙沼市幸町にアパートを借り、コピー機等を入れて、気仙沼に帰ったときはこのアパートに寝泊まりして仕事をするようになりました。

○アパートの一室は打合せ室になり、固定専用電話を入れ、コピー機や手動式タイプライターも持ち込み、実姉に事務作業を手伝って貰い、事務所然とした姿になり、気仙沼のお客様は、いつしか、小松弁護士の気仙沼事務所と呼ぶようになりました。更に年賀状にこの気仙沼のアパートの電話番号を気仙沼連絡所として表示したこともあり、時の弁護士会会長から口頭で第2事務所と誤解されるのでそのような表示は止めるようにと注意されました。

○その後、まもなく、当時の仙台弁護士会の長老大先輩から呼び出されて、小松君の気仙沼のアパートが色々と問題になっているので速やかに撤退した方が君のためだとアドバイスを受け、これは懲戒問題になる予告と理解し、速やかにその大先輩のアドバイスに従ってアパートを引き払いました。当時は第2事務所は弁護士会規則で厳しく禁じられていたからです。その大先輩からはその後気仙沼関連の事件を紹介され、その事件での縁を得た方には長く仕事を紹介頂きいまだにお世話になっています。

○気仙沼のアパートを引き払った話を聞いた当時の気仙沼に2人居た弁護士の内1人A先生から、気仙沼での打ち合わせが必要なときは、うちの事務所の打合せ室を自由に使って良いとの誠に有り難い申出を頂き、その後、10数年に渡り、気仙沼での打ち合わせをA先生の事務所で行いました。その先生には、打合せ室を提供する代わりに自分の仕事も手伝って欲しいとの更に有り難い申出を受け、仙台に居ながらその先生の受ける盛岡地裁一関支部での訴訟事件を専属下請的に受任するようになり、一時は週に1回程仙台から自動車で1時間程の盛岡地裁一関支部に通いました。

○弁護士5年目頃から20年目頃までは、30代から40代の10数年でしたが、まだ仙台での事件はさほど多くない時期で、A先生から受ける事件収入が結構な割合を占めました。40代後半から50代にかけて仙台での事件が増え始め、A先生にはその事情を察して頂き、A先生からご提供頂く事件が徐々に減り、50代半ば以降は、A先生からご提供される事件は殆どなくなりました。

○こうして振り返るとこれまでの私の弁護士稼業は恵まれていたと実感します。仕事の余りない弁護士開業後しばらくは郷里気仙沼からの事件が入り、更に、気仙沼の先輩弁護士から仕事を分けて頂き、それが収入の結構な部分を占めて各年代、経験年数毎の平均収入より少しは多い収入を得ることが出来たからです。第2事務所問題での懲戒の危機も大先輩弁護士のアドバイスで脱することが出来ました。

○40代後半からは気仙沼の事件は原則として受任せず気仙沼在住の弁護士に紹介するようになりましたが、それまでは気仙沼の方々からの依頼も多く大変お世話になり、今も年賀状の遣り取りを行う方は多くおられます。その中には東日本大震災で大変な被害を受けながら復興を目指して頑張っている方も多くおられ、ただただご健闘をお祈りするだけです。
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