令和 1年 6月23日(日):初稿 |
○「保阪正康氏著”昭和史の急所 戦争・天皇・日本人”の田中角栄紹介」の続きで、別冊宝島編集部編「田中角栄の『戦争と平和』」の中の田中角栄の軍隊時代についての記述備忘録です。 ・昭和14年3月;盛岡騎兵第三旅団第二四連隊第一中隊入隊通知を受け取り、広島宇品港から貨物船「おはいを丸」で北朝鮮経由で満州へ ・満州での兵舎生活を始めた角栄を待ち受けていたものは、多くの新兵と同様、何かにつけて殴られる日々 ・乗馬訓練で「久秀号」と言う荒馬をあてがわれ、障害物を避け横に走ったはずみで、角栄は落馬 ・昭和14年5月第一次ノモンハン事件勃発、部隊の古兵たちの半分近くは前線に出勤、乗馬訓練は二ヶ月で終了 ・第一中隊本部の「二年兵教育計画書」再提出の計画書作成を命じられ「コップに酒だッ。それから曹長、鉛筆、定規、ピンを持ってきてくれ」と条件を出して応じる ・ノモンハン事件勃発後も、角栄は前線に送られること亡く「酒保」(兵士たちに日用品や飲食、嗜好品など販売する係)を担当、前線に送られた古兵は、出勤三,四日後には戦死の公報がどんどん入り、戦争の厳しさ実感 ・角栄が酒保の係りにとどまれたのは、当時の連隊の叩き上げ中尉が、角栄の計算能力と達筆を見込んでいたからとの説がある ・当時の角栄を知る戦友たちは「銃の手入れなどをしているのは見たことはなく、暇があれば彼女や知人、家人らに手紙を書いていた」とその印象を語っている ・昭和15年11月、酒保をつとめていた角栄はクルップ肺炎にかかり入院、クルップ肺炎は急性呼吸疾患で当時は命にもかかわるやっかいな病気 ・私の履歴書での角栄自身の記述 「一日か二日の入院かと思っていた私は、診断の結果、右乾性胸膜炎併発のため急遽半載河の病院に送られ、そこもわずか一日、二日で旅団本部の所在地宝清に送られた。宝清の陸軍病院からは退院できるものと考えていたのに、この病院に一ヶ月ほどいてから、内地送還の決定を受け、飛行機で佳木斯に送られ、あとは延吉、公主領を経て、二月の末には大連の近くの季樹屯に送られた」 ・季樹屯から大阪行きの船に乗り、天王寺の日赤病院に入院し、ベッドの上で生死の境をさまよい、昭和16年4月、仙台の陸軍病院に移送 ・陸軍病院では「一報患者」(危篤状態にあるときに「病い重しと打つのが一報」)とされ、41度の高熱にうなされ続け、二週間あまり危篤状態が続いた症状は奇跡的に回復、半年ほど仙台陸軍病院に入院した後、故郷の新潟に帰る ・仙台陸軍病院で角栄と同室だった遠藤榮門は、重症の角栄に「家の人から面会に来てもらってはどうか」と進言したところ、角栄が「俺はこんな病気には負けない。元気になって大きなことをやる」と言われて驚いたエピソードを明かしている ・角栄が配属された騎兵第二四連隊は、昭和20年8月、ソ連の侵攻により全滅 ○角栄仮病説については、半年も陸軍病院に入院して「危篤」の電報まで打たれたことから、全くの仮病とは考えにくいが、人一倍先を見通す力が鋭かった角栄が「戦争と自分のだいたいのゆくえ」を早い段階で正確に認識していたことは間違いないと記述されています。およそ2年間に及んだ角栄の従軍時代は、一度も戦闘行為に関与することなく終わり、昭和16年に正式除隊した角栄は、その後すぐ実業の世界に戻りました。 以上:1,358文字
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