平成30年 7月15日(日):初稿 |
○「”素顔の田中角栄―密着!最後の1000日間”紹介」を続けます。 この著書の中で共感した記述を紹介します。昭和59年5月、新潟で大規模な自然災害が起きた時の話です。 ○一報を聞くなり、午前中のスケジュールを全てキャンセルし、角さんが向かった先は、地滑り被害の現場、長岡市の蓬平であった。幅約130メートル、長さ250メートルにわたって滑落した大量の土石流は民家9戸をなぎ倒したが、幸いにも死者はでなかった。 被害の報を聞くや否や、間髪を入れず足を伸ばして被災現場を視察した角さん。土嚢が積まれた泥濘の、道とも言えない道を平気な顔をして革靴のまま歩き回った。もちろん角さんのズボンの裾や靴は泥まみれになってしまった。早速、地元の被災住民や消防団、救助隊の人たちと突っ立ったままで対策を協議する。(中略) 角さんの言葉は常に直截的だ。現実に合わせた対応策が次々と飛び出す。家を壊され、悲嘆の最中にいる被災者たちにとって、角さんの親身な言葉のひとつひとつが、何よりの励ましとなっただろう。 角さんの故郷・新潟は、豪雪、豪雨、地震など自然災害の多い土地柄だ。昭和39年の新潟大地震、特に昭和42年の羽越水害(死者104名)などの被害から立ち上がる際のリーダーが角さんだった。 ○この記述を読んで、畏敬して谷沢永一先生の著作「人間力」での、「この人こそ大いなる人間力ありしか、と想像できる人傑を挙げてみよう。」として紹介された「田中角栄」の項目を思い出しました。 田中角栄。 淡路阪神大震災の朝、被災者の誰もが、今カクさんが総理でいてくれたら、と口惜しがった。角栄はまず関西地方の主要道路に一般車の進入を禁止し、膨大な食料と生活資料を送りつけ、自衛隊に空からの撒水による消火作業を要請し、銀行と郵便局に通帳なしの払戻及び貸付を命じ、臨時の小屋を建てるため全国の建設業者に檄を飛ばし、ほぼ以上の措置をあの早口で官邸から息もつかず指示を続け、それが終わるや地元議員を誘い集め、最短の時間で現場へ駆けつけたであろう。時の総理村山富市は、地震のとき熟睡しており、目覚めても何もしなかった。本当に何もしなかった。翌日の正午はホテルオークラで、経済人と会食していた。 ○時の村山総理、ホントに何もしなかったのかネット検索すると色々記事が出てきますが、ウィキペディアの以下の記事を引用します。正直な方でした。 「村山は『初動対応については、今のような危機管理体制があれば、もっと迅速にできていたと思う。あれだけの死者を出してしまったことは、慚愧(ざんき)に堪えない。1月17日の朝は毎年、自宅で黙とうする』と語っている。また、『危機管理の対応の機能というのは全然なかったんです。初動の発動がね、遅れたということについてはね、これはもう弁明のしようがないですね。ええ。本当に申し訳ない』と述べ、言い訳や反論のしようがなく、反省しているとの考えを語っている。」 以上:1,206文字
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