平成25年 3月 5日(火):初稿 |
○平成25年3月4日午後10時から10時50分までNHK総合TVで表記”ファミリーヒストリー最終回「マギー審司~故郷、気仙沼の海に誓う覚悟とは~」”が放映されました。気仙沼中学校20回生支援会のブログ「気中20+PLUS」で繰り返し紹介されていましたので、何としても鑑賞しようと思い、期待しての鑑賞でしたが、期待に違わぬ素晴らしい内容でした。 ○NHKの番組説明は以下の通りです。 宮城・気仙沼で300年以上前から暮らすマギー審司の一家。これまで何度も津波に遭いながらも乗り越えてきた家族の日々があった。父の代で始めた電気店。遠洋漁業が好景気で沸く中、店は順調に拡大。しかし、その後の漁業の衰退で売上は減少していく。東日本大震災で、審司は、祖母と親戚を亡くした。実家の電気店は浸水し商品は台無し。それでも両親は命が助かったことに感謝しつつ、故郷の復興のために強く生きる覚悟を持つ。○「東日本大震災後の大津波-想定外とは言えないか?」で紹介した吉村昭氏著「三陸海岸大津波」には、明治29年、昭和8年、昭和35年の3度にわたり東北の沿岸部を襲った大津波について刻銘に記録され、「遺体収容の実際や、被災地で窃盗が横行したことまでも、余すことなく記す。津波の前の豊漁や沖合での轟音(ごうおん)、海上の発光などの“前兆現象”の証言も丹念に拾い集めているが、そうした過去の経験にとらわれて逃げ遅れた人々が多くいたことも併せて記録」されています。 ○明治29年の明治三陸大津波の間に発生した地震は、震度僅か2程度の小さな地震でした。しかし地震発生30分後に轟音と共に襲いかかった津波は高さ10数メートルもの大津波となり死者2万人を超える甚大な被害を与えました。マギー審司氏の5代前の三浦家当主で漁師であった直治氏も犠牲となります。直治氏の家族は避難して無事でしたが、直治氏自身は、漁師仲間を津波から助けようと浜に行ったまま帰らぬ人になりました。直治氏死去後、村人たちは復興のために懸命に働き三浦家も支えてくれました。 ○その後、三浦家は直治の甥でマギー審司の曽祖父にあたる七之亟氏が当主となります。七之亟氏も漁師として家族を養いながら、津波後に村人たちに助けてもらった恩から、近所の子どもに捕れた魚を配るなどしていました。明治三陸大津波から38年後、昭和8年3月3日に震度5の地震が発生し、地震の数時間後、七之亟氏の娘まさゑ氏は浜辺で貝を拾っていましたが、七之亟氏が、強い引き波に気づき、大津波来襲を予測して、大声で子どもたちを避難させ、三浦家が住む村も家屋に大きな被害を受けましたが、犠牲者は一人も出ませんでした。 ○この昭和三陸大津波の翌年には東北地方を冷害が襲い、歴史的な凶作になり、村人たちは度重なる災害に苦しみ絶望的になっていきますが、世話好きで人を楽しませることが何より好きな七之亟氏は、村人を元気づけるため自宅に舞台を作り神楽の一座を呼んで村人を楽しませました。この世話好きな七之亟氏の孫がマギー審司氏の父幹雄さんです。他人の喜びを我が喜びと感じる資質は人間として最高の資質と思いますが、三浦家は代々この資質を受け継いでいるようです。 ○この幹雄さんが、中学卒業後、一時東京に就職するも、望郷の念に駆られて気仙沼に戻り、電気店に勤務した後の昭和35年5月24日、チリ地震津波が気仙沼を襲い、店の商品も被害に遭います。このときのことは私自身、小学3年生でおぼろげながら記憶にあります。父が乗船していた漁船の網元が港近くにあり、津波の被害を受け、母が片付けの手伝いに行きました。 ○昭和45年幹雄さんは結婚し、独立して港近くに三浦電気商会という名の電気店を開店しますが、私が気仙沼高校を卒業し気仙沼を離れた年ですのでこの電気店は記憶にありません。三浦電気商会は、当時好景気であったマグロ船漁師を客として繁盛し店を拡大するも、遠洋漁業衰退と共に売上が落ち、17年後には店を新興住宅地に移し、ここで東日本大震災の津波に遭い、電器店は1メートル浸水し、大勢の親戚や友人が亡くなりました。 ○震災直後の気仙沼の悲惨な状況がしばし放映されますが、幹雄さんは、この町の様子を見て回り「落ち込んでいる場合じゃない。自分にできることを始めよう」と決意し、長年の得意先を回り、アンテナを無償で修理したり、店の在庫を無償提供したりして元気に駆け回る様子が続けて放映されました。幹雄さんは、平成25年に70歳になるとのことで、私より8年先輩ですが、郷里気仙沼が元気を取り戻すために少しでも役立とうとする意気込みが若々しく,元気を分けて貰った気がしました。 以上:1,897文字
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