平成23年 6月15日(水):初稿 |
○東日本大震災から3ヶ月強経過しましたが、丸善仙台アエル店等宮城県内の書店には、東日本大震災の写真記録書籍が溢れています。河北新報出版センター共同通信社編特別報道写真集”東日本大震災2011.3.11-1ヶ月の全記録-”を始め、各新聞社が発行する写真記録集は目につくものは全て購入していましたが、平成23年6月14日、丸善仙台アエル店で、BD版”大震災記録映像東日本大震災-宮城・石巻地方沿岸部の記録”を購入してきました。映像の一部はここで見ることが出来ます。BD版は3800円でちと高いのですが、「このDVDの売り上げの一部は石巻市に義援金として寄付いたします」とのことで寄附のつもりで購入しました。 ○出版社は宮城県石巻市住吉町所在の有限会社ビデオプラザ神奈川で、社長さんは石巻の生まれで、”神奈川”の社名由来は「実は、横浜元町に同じ社名の会社があり、私の長男が現在21才ですから彼が生まれたばかりの21年前、中古の機材を旧式のコルサに積んで家族共々生まれ故郷の宮城県に帰ってきたのが始まりです。横浜の同盟(同名)の会社は、初めにお世話になった会社で快くのれん分けをしてもらったしだいです。」とのことで、会社案内では「100の言葉より1秒の映像を!」をキャッチフレーズにしています。 ○YouTubeには、東日本大震災関係動画が山のように掲載されていますが、BD版大画面TVで観る映像は迫力が全く違い、息を呑む場面の連続で、東日本大震災の甚大な被害を改めて思い知らされました。雄勝町等沿岸部の先人が作った「地震が来たら津波が来る」との警告石碑自体が津波に流されて倒れている場面が繰り返し映されていますが、沿岸部の方々は昔から津波被害に遭い、その都度警告を発してきたのですが、今回の大震災後の津波は,多くの方の想像を絶するものでした。このBDでも「これほどの津波が来るとは予想もしていなかった」との証言が繰り返されています。 ○その意味で、今回の大震災の実態と惨状を出来る限り後生に伝える記録を残すことは重要です。我が郷里気仙沼には三陸新報社と言う地元紙がありますが、「後生に伝える」との各所属記者のドキュメントを大震災後2ヶ月くらいは連載しており、この三陸新報を1日遅れで郵送配達して貰っている私は毎日欠かさず読んでいました。大震災前は必要部分を読んだ後は、捨てていましたが、大震災後の三陸新報は捨てずにとっています。「後生に伝える」シリーズは、いずれ特集として書籍化されることを期待しています。 ○100数十年前の明治三陸大津波でも東北地方沿岸部は壊滅的被害を受け、その37年後の昭和三陸大津波でも大きな被害を受けているのですが、当時の記録は写真等でも余り残されておらず、その甚大な被害状況が後生にシッカリと伝えられなかったことが、今回の大震災での被害拡大に繋がりました。吉村昭氏著「三陸海岸大津波」を読めば「これほどの津波が来るとは予想もしていなかった」とは到底言えないはずですが、この著作での警告は,残念ながら,余り浸透していませんでした。私自身、東日本大震災前には、吉村昭氏著「三陸海岸大津波」の存在すら知りませんでした。 ○先日、長年の友人が、経営する事務所工場に甚大な被害を受けたことを大震災後大部経ってから聞き及び,慌ててお見舞いに訪れ、その凄まじい経験を伺いました。多賀城市にあるその事務所工場所在地はGoogleマップみると、仙台港から僅か400m位の位置にあり、4m近い津波に襲撃されました。友人は自動車に乗って迫り来る黒い波を背にしながら必死に逃げ、一時は津波を引き離すも、渋滞に巻き込まれ、とっさの判断で自動車から降り、細い路地伝いに走り、たまたま段差があって低い建物の屋根のひさしに手がかかり,必死に屋根に駆け上ったところに津波が通り過ぎ、すんでの所で津波に巻き込まれずに済みました。渋滞時空いている道に入った自動車は、津波に巻き込まれ流されてしまったとのことでした。 ○友人は全く水に浸かることもなく屋根に登って九死に一生を得たものの周辺には誰もおらず、一人屋根の上に居ると雪がちらつき寒さで凍え死んでしまうことも覚悟したところ、午後11時頃、30m程離れた2階建ての民家から「大丈夫か、こっちに来い」と大声をかけられ、その時点では水も数十㎝の高さに引いていたので、大腿部まで水に浸かりながら移動して、老夫婦が住むその家の2階に上げて貰い、石油ストーブで暖をとり、老夫婦の息子のジャージ等に着替え、食事も頂き何とか生きながらえたとのことです。 ○その友人とは10数年前一緒にダブルスを組んで社会人テニスに出場した仲で当事務所恒例の忘年会にも欠かさず出席してくれる有り難い方で、凄まじい経験をしましたが,その後事務所工場も少しずつ復帰して元気に仕事に励んでいるとのことで安堵した次第です。 以上:1,994文字
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