平成20年 6月29日(日):初稿 |
○「筋肉が強く若いほど無病で長寿-石原結實医師」に「かくいう私も大学時代に当時仙台市内X橋付近にあった藤原ジムに2年ほど通い、気仙沼実家での受験時代も合格する26歳まで1日30分程度ですが、ウエイトトレーニングに励み」と記載しました。 ○マニアック・ボディビルディングの「男子宮城県ボディビル選手権歴代優勝者」を見ると1966年度の初代藤原達也氏から1982年17代柴田紀男氏までは優勝者17名中15名が藤原ジム所属選手で占められており、当時の宮城県ボディビル界の中心が藤原ジムだったものと思われます。藤原ジムは、「男子宮城県ボディビル選手権歴代優勝者」の初代と2代の優勝者藤原達也氏(弟)とマスターズ(70才以上)連続優勝者の藤原勤也氏(兄)ご兄弟の経営でした。 ○私も大学2年初め頃の昭和47(1972)年から昭和49(1974)年の大学3年終わり頃まで2年間弱ほど藤原ジムに通った様に記憶しています。おそらく最も熱心に通ったのは大学3年になった頃で、この頃も相変わらずガールフレンドも皆無でフラメンコギターと藤原ジム通いだけが私の道楽でした。 ○生来虚弱体質に生まれた私の身体は骨格構造も貧弱なためたとえ筋肉がついても到底ボディビル選手権に出場できるような逞しい身体にすることは出来ませんでしたが、どういう訳か、上腕二頭筋(力こぶ)と上腕三頭筋だけは発達して、ベンチプレスの力だけはつきました。 ○一番ウエイトトレーニングに励んでいた大学3年時のベンチプレスでのベスト記録は110㎏で、この当時は、上腕屈曲囲が最大で38㎝まで膨らみました。勿論110㎏を持ち上げるの辛うじて1回だけあり、普段のトレーニングではベンチプレスを80~95㎏で10回程度ずつやっており、ジムの中でもベンチプレスだけは比較的強い方でした。 ○しかし当時の藤原ジムには、ベンチプレスで100数十㎏を軽く10回以上挙げる猛者も相当居ました。ご一緒にトレーニングさせて頂いた10代、11代優勝者の古山勲氏などは、巨大な肩幅でその見事な逆三角形の上半身は失礼ながら大きなエイの様で、ベンチプレスも軽く100数十㎏を繰り返し挙げていたように記憶しています。 ○昭和50年春から司法試験受験勉強のため郷里気仙沼に帰ってからも、知り合いの大工さんに頼んで自宅物置内に使わなくなった水道管を利用してトレーニングのためのチンニング(懸垂)用鉄棒、バーディップス用平行棒等を作って頂き、ホームジム用ベンチプレス台を置いて3畳間程の広さのホームジムを作って昭和52年10月の試験合格時まで一日30分~1時間程度はトレーニングを続け、その記録も受験勉強記録と合わせてマメにノートに残していました。 論文合格を翌日に控えた昭和52年9月7日(水)の記録は以下の通りでした。 BP=70kg×10×1,80kg×10×1,70kg×10×1,PO=42.5kg×10×3,DP=25kgW×10×3,LR=15kgW×10×3, BD=0kg×10×3,RC=27.5kg×10×1,FP=27.5kg×10×1,SC=27.5kg×10×1,TP=7.5kgW×10×1,BD=0kg×10×1 以上:1,309文字
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