平成19年 3月25日(日):初稿 |
○私は中学3年になった昭和41年4月から高校1年終了の昭和43年3月まで丸2年間新聞配達のアルバイトをしていました。日本全体が豊かになったこの頃は、小中学生の新聞配達は殆ど見かけなくなりましたが、昭和30年代、40年代は全然珍しい存在ではなく、新聞配達の殆どは小中学生或いは高校生だったように思います。 ○小学校5年生で初めて同じクラスになり何となく気が合い、その後48歳で肝臓ガンのため亡くなるまで親しく付き合いさせていただいたA君は、小学5年の時お父さんが亡くなり、お母さんが女手一つで2男2女の4人の子供を育てる事となり、生活の助けをするため小学6年から高校3年生まで新聞配達、牛乳配達、魚屋の店員等のアルバイトをしていました。 ○幼児時代から虚弱体質でしょっちゅう病気ばかりしていた私は、少しでも虚弱体質改善になればと思い、また小遣い稼ぎもしたく、中学3年の時再度同じクラスになったA君の勧めもあり、A君と同じ宮城県気仙沼市八日町の広野新聞店に昭和42年4月からアルバイトとして勤め始めました。 ○当時、広野新聞店は40~50代のご夫婦で経営しており、ご存命であればご夫婦は現在80~90代になっておられるはずです。広野新聞店は現在も存続しており、おそらくお子様に代替わりしているものと思われます。 ○当時広野新聞店では、気仙沼の地元紙の三陸新報と朝日新聞、日刊スポーツ、それに岩手県の地元紙岩手日報、更に産経新聞と産経スポーツまで扱っていたように記憶しています。私の配達地区は気仙沼市中心部の南町1~3丁目の朝日新聞と三陸新報を中心とした100数十部でした ○朝日新聞と三陸新報を合わせて取っている家庭も多く、配達戸数は100戸を少し上回るくらいで、幸い平地が多く、殆どを自転車で回ることが出来、配達自体は30分前後で終わったように記憶しています。 ○広野新聞店に出勤しても直ぐに配達に出ることは出来ません。先ずおかみさんから自分が配達する部数の各新聞の配給を受けるのに時間がかかりました。出勤順に並び早い出勤の人から順番に配給を受けますが、この待ち時間が結構長かったように記憶しています。 ○配達新聞の配給を受けると次に新聞一枚ごとにチラシを入れなければなりません。多いときは10枚以上のチラシがあり、これを配給された100数十部の新聞全部に一枚一枚入れる作業も新聞配達員の仕事です。チラシが多いときはウンザリし、稀にチラシが全くないときはホントに有り難く得をしたような気になりました。 以上:1,034文字
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