平成29年11月20日(月):初稿 |
○社員が過労自殺した会社からの相談を受けており、有名な電通事件平成12年3月24日最高裁判決(判時1707号87頁、判タ1028号80頁)全文の分析が必要になりました。判決要旨は、大手広告代理店に勤務する労働者Aが長時間にわたり残業を行う状態を1年余り継続した後にうつ病にり患し自殺した場合において、 ①Aは、業務を所定の期限までに完了させるべきものとする、一般的、包括的な指揮又は命令の下にその遂行に当たっていたため、継続的に長時間にわたる残業を行わざるを得ない状態になっていたものであって、Aの上司は、Aが業務遂行のために徹夜までする状態にあることを認識し、その健康状態が悪化していることに気付いていながら、Aに対して業務を所定の期限内に遂行すべきことを前提に時間の配分につき指導を行ったのみで、その業務の量等を適切に調整するための措置を採らず、その結果、Aは、心身共に疲労困ぱいした状態となり、それが誘因となってうつ病にり患し、うつ状態が深まって衝動的、突発的に自殺するに至ったなど判示の事情の下においては、使用者は、民法715条に基づき、Aの死亡による損害を賠償する責任を負う ②業務の負担が過重であることを原因として労働者の心身に生じた損害の発生又は拡大に右労働者の性格及びこれに基づく業務遂行の態様等が寄与した場合において、右性格が同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでないときは、右損害につき使用者が賠償すべき額を決定するに当たり、右性格等を民法722条2項の類推適用により右労働者の心因的要因として斟酌することはできない というものです。 「Aは、出勤したまま帰宅しない日が多くなり、帰宅しても、翌日の午前6時30分ないし7時ころで、午前8時ころまでに再び自宅を出るという状況となった。 (中略) 一方、Aは、前述のような業務遂行とそれによる睡眠不足の結果、心身共に疲労困ぱいした状態になって、業務遂行中、元気がなく、暗い感じで、うつうつとし、顔色が悪く、目の焦点も定まっていないことがあるようになった。」との業態は凄まじいとしか言えません。 以下、判決全文の前半です。 ****************************************** 主 文 一 平成10年(オ)第217号上告人の上告を棄却する。 二 原判決中平成10年(オ)第218号上告人らの敗訴部分を破棄し、右部分につき本件を東京高等裁判所に差し戻す。 三 第一項に関する上告費用は、平成10年(オ)第217号上告人の負担とする。 理由 第一 平成10年(オ)第217号上告代理人○○○○の上告理由及び同○○○○の上告理由の第一ないし第五について 一 本件において、甲野一郎(以下、Aという)の相続人である平成10年(オ)第217号被上告人ら・同第218号上告人ら(以下、それぞれを「一審原告太郎」のようにいい、右両名を併せて「一審原告ら」という。)は、平成10年(オ)第217号上告人・同第218号被上告人(以下「一審被告」という。)に対し、Aの一審被告に対する民法715条に基づく損害賠償請求権を相続したとして、その支払を求めているところ、所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、首肯するに足りる。これによると、本件の事実関係の概要は、次のとおりである。 1 Aは、昭和41年11月30日、一審原告らの長男として出生した。Aは、健康で、スポーツが得意であり、その性格は、明朗快活、素直で、責任感があり、また、物事に取り組むに当たっては、粘り強く、いわゆる完ぺき主義の傾向もあった。平成2年から3年当時、Aと一審原告らは同居しており、一審原告らはそれぞれ職を有していた。 2 Aは、平成2年3月に○○学院大学法学部を卒業し、同年4月1日、一審被告の従業員として採用され、他の178名と共に入社した。採用の約2か月前にAに対して行われた健康診断においては、色覚異常があるとされたほかは、格別の問題の指摘はなかった。 3 新入社員研修を終え、Aは、平成2年6月17日、一審被告のラジオ局ラジオ推進部に配属された。同部の部長はBで、同部には13名の従業員が所属し、二つの班に分けられていた。Aは、Cを班長とする班に属するものとされて、C外二名の従業員と共に、築地第七営業局及び入船第八営業局関係の業務を担当することとなった。 4 平成2年当時、一審被告の就業規則においては、休日は原則として毎週二回、労働時間は午前9時30分から午後5時30分までの間、休憩時間は正午から午後一時までの間とされていた。そして、平成10年法律第112号による改正前の労働基準法36条の規定に基づき一審被告と労働組合との間で締結された協定(以下「36協定」という。)によって、各労働日における男子従業員のいわゆる残業時間の上限は、6時間30分とされ、平成2年7月から平成3年8月までの間の各月の合計残業時間の上限は、ラジオ推進部の場合、別紙の「月間上限時間」欄記載のとおりとされていた。 ところで、一審被告においては、残業時間は各従業員が勤務状況報告表と題する文書によって申告することとされており、残業を行う場合には従業員は原則としてあらかじめ所属長の許可を得るべきものとされていたが、実際には、従業員は事後に所属長の承認を得るという状況となっていた。一審被告においては、従業員が長時間にわたり残業を行うことが恒常的に見られ、36協定上の各労働日の残業時間又は各月の合計残業時間の上限を超える残業時間を申告する者も相当数存在して、労働組合との間の協議の席等において問題とされていた。 さらに、残業時間につき従業員が現に行ったところよりも少なく申告することも常態化していた。一審被告は、このような状況を認識し、また、残業の特定の職場、特定の個人への偏りが問題であることも意識していた。一審被告は、午後10時から午後5時までの間に業務に従事した従業員について所定労働時間に対する例外的取扱いを認める制度を設けていたほか、午前零時以降に業務が終了した従業員で翌朝定時に出勤する者のために一審被告の費用で宿泊できるホテルの部屋を各労働日において5室確保していたが、一審被告による周知徹底の不足等のため、これらは、新入社員等には余り利用されていなかった。 5 Aは、ラジオ推進部に配属された当初は、班長付きと称される立場にあって、日中はおおむねCと共に行動していた。その業務の主な内容は、企業に対してラジオ番組の提供主となるように企画書等を用いて勧誘することと、企業が宣伝のために主宰する行事等の企画立案及び実施をすることであった。Aは、労働日において、午前8時ころまでに自宅を出て、午前9時ころまでに出勤し、執務室の整理など慣行上新入社員が行うべきものとされていた作業を行った後、日中は、ほとんど、勧誘先の企業や一審被告の他の部署、製作プロダクション等との連絡、打合せ等に忙殺され、午後7時ころに夕食を取った後に、企画書の起案や資料作り等を開始するという状況であった。Aは、業務に意欲的で、積極的に仕事をし、上司や業務上の関係者から好意的に受け入れられていた。 6 平成2年7月から平成3年8月までの間にAが勤務状況報告表によって申告した残業時間の各月の合計は、別紙の「申告残業時間」欄に記載のとおりである。しかしながら、右申告に係る残業時間は、実際の残業時間よりも相当少なく、また、右各月においてAが午前2時よりも後に退勤した回数は、別紙の「午前2時以降退勤」欄に記載のとおりであった(同欄の括弧内の数字は、右のうち終夜退勤しなかった回数である)。Aは、退勤するまでの間に、食事、仮眠、私事等を行うこともあったが、大半の時間をその業務の遂行に充てていた。 7 Aは、ラジオ推進部に配属されてからしばらくの間は、出勤した当日中に帰宅していたが、平成2年8月ころから、翌日の午前1、2時ころに帰宅することが多くなった。同月20日付けのBのAに対する助言を記載した文書には、Aの業務に対する姿勢や粘り強い性格を評価する記載と共に、今後は一定の時間内に仕事を仕上げることが重要である旨の記載があった。一方、Aは、同年秋ころに一審被告に提出した文書において、自分の企画案が成功したときの喜びや、思っていた以上に仕事を任せてもらえるとの感想と共に、業務に関する不満の一つとして、慢性的に残業が深夜まであることを挙げていた。なお、同年秋に実施されたAに対する健康診断の結果は、採用前に実施されたものの結果と同様であった。 8 Aは、平成2年11月末ころまでは、遅くとも出勤した翌日の午前4、5時ころには帰宅していたが、このころ以降、帰宅しない日や、一審原告太郎が利用していた東京都港区内所在の事務所に泊まる日があるようになった。一審原告らは、Aが過労のために健康を害するのではないかと心配するようになり、一審原告太郎は、Aに対し、有給休暇を取ることを勧めたが、Aは、自分が休んでしまうと代わりの者がいない、かえって後で自分が苦しむことになる、休暇を取りたい旨を上司に言ったことがあるが、上司からは仕事は大丈夫なのかと言われており、取りにくいと答えて、これに応じなかった。 9 平成3年1月ころから、Aは、業務の7割程度を単独で遂行するようになった。このころにAが一審被告に提出した文書には、業務の内容を大体把握することができて計画的な作業ができるようになった旨の記載のほか、今後の努力目標として効率的な作業や時間厳守等を挙げる記載や、担当業務の満足度に関しては仕事の量はやや多いとする記載等があった。Aの業務遂行に対する上司の評価は概して良好であり、Bらがこのころに作成した文書には、非常な努力家であり先輩の注意もよく聞く素直な性格であるなどと評価する記載があった。 10 Bは、平成3年3月ころ、Cに対し、Aが社内で徹夜していることを指摘し、Cは、Aに対し、帰宅してきちんと睡眠を取り、それで業務が終わらないのであれば翌朝早く出勤して行うようにと指導した。このころのBらのAについての評価は、採用後の期間を考慮するとよく健闘しているなどというものであった。平成2年度においてAが取得することができるものとされていた有給休暇の日数は10日であったが、Aが実際に取得したのは0.5日であった。 11 Aの所属するラジオ推進部には、平成3年7月に至るまで、新入社員の補充はなかった。同月以降、Aは、班から独立して業務を遂行することとなり、築地第七営業局関係の業務と入船第三営業局関係の業務の一部を担当し、入船第八営業局関係の業務の一部を補助するようになった。 このころ、Aは、出勤したまま帰宅しない日が多くなり、帰宅しても、翌日の午前6時30分ないし7時ころで、午前8時ころまでに再び自宅を出るという状況となった。一審原告花子は、栄養価の高い朝食を用意するなどしてAの健康に配慮したほか、自宅から最寄りの駅まで自家用車でAを送ってその負担の軽減を図るなどしていた。これに対し、一審原告太郎は、Aと会う時間がほとんどない状態となった。一審原告らは、このころから、Aの健康を心配して体調を崩し、不眠がちになるなどしていた。一方、Aは、前述のような業務遂行とそれによる睡眠不足の結果、心身共に疲労困ぱいした状態になって、業務遂行中、元気がなく、暗い感じで、うつうつとし、顔色が悪く、目の焦点も定まっていないことがあるようになった。このころ、Cは、Aの健康状態が悪いのではないかと気付いていた。 12 Aは、平成3年8月1日から同月23日までの間、同月3日から同月5日までの間に旅行に出かけたほかは、休日を含めてほぼ毎日出社した。Aは、右旅行のため同月5日に有給休暇を取得したが、これは、平成3年度において初めてのものであった。Aは、同月に入って、Cに対し、自分に自信がない、自分で何を話しているのか分からない、眠れないなどと言ったこともあった。 13 平成3年8月23日、Aは、午後6時ころにいったん帰宅し、午後10時ころに自宅を自家用車で出発して、翌日から取引先企業が長野県内で行うこととしていた行事の実施に当たるため、同県内にあるCの別荘に行った。この際、Cは、Aの言動に異常があることに気付いた。Aは、翌24日から同月26日までの間、右行事の実施に当たり、その終了後の26日午後5時ころ、行事の会場を自家用車で出発した。 14 Aは、平成3年8月27日午前6時ころに帰宅し、弟に病院に行くなどと話し、午前9時ころには職場に電話で体調が悪いので会社を休むと告げたが、午前10時ころ、自宅の風呂場において自殺(い死)していることが発見された。 15 うつ病は、抑うつ、制止等の症状から成る情動性精神障害であり、うつ状態は、主観面では気分の抑うつ、意欲低下等を、客観面ではうち沈んだ表情、自律神経症状等を特徴とする状態像である。うつ病にり患した者は、健康な者と比較して自殺を図ることが多く、うつ病が悪化し、又は軽快する際や、目標達成により急激に負担が軽減された状態の下で、自殺に及びやすいとされる。 長期の慢性的疲労、睡眠不足、いわゆるストレス等によって、抑うつ状態が生じ、反応性うつ病にり患することがあるのは、神経医学界において広く知られている。もっとも、うつ病の発症には患者の有する内因と患者を取り巻く状況が相互に作用するということも、広く知られつつある。仕事熱心、凝り性、強い義務感等の傾向を有し、いわゆる執着気質とされる者は、うつ病親和性があるとされる。また、過度の心身の疲労状況の後に発症するうつ病の類型について、男性患者にあっては、病前性格として、まじめで、責任感が強すぎ、負けず嫌いであるが、感情を表さないで対人関係において敏感であることが多く、仕事の面においては内的にも外的にも能力を超えた目標を設定する傾向があるとされる。 前記のとおり、Aは、平成3年7月ころには心身共に疲労困ぱいした状態になっていたが、それが誘因となって、遅くとも同年8月上旬ころに、うつ病にり患した。そして、同月27日、前記行事が終了し業務上の目標が一応達成されたことに伴って肩の荷が下りた心理状態になるとともに、再び従前と同様の長時間労働の日々が続くことをむなしく感じ、うつ病によるうつ状態が更に深まって、衝動的、突発的に自殺したと認められる。 以上:5,932文字
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