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裁判員裁判での死刑宣告を覆した最高裁判決雑感

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平成27年 2月10日(火):初稿
○「刑事弁護人の任務と私が刑事事件を避ける理由」に、私が刑事事件を避けるようになった理由として、「日本の刑事司法の危機的状況に刑事事件に絶望しているからなんて格好いいものではなく、日本の刑罰は一般的に甘すぎると感じる私の根源的感覚にあります。被告人になられた方は、少しでも刑を軽くしたいから弁護人をつけるのであり、私のような感覚で刑事事件を受任するのは被告人の方に申し訳ないからです。」と記載していました。

○「兎に角、日本の刑罰は軽すぎる」が私の根源的感覚です。従って、日弁連ではおそらく多数派を占める死刑制度廃止なんて論外で、故意で人を1人殺したら、原則死刑にすべき、なんて、死刑廃止論者からは、とんでもない暴論が私の持論です(^^;)。ところがなんとか死刑制度を保っている日本でも、死刑にするには、故意殺人で2名以上殺して始めて死刑という慣行というか裁判例の積み重ねがあります。

○平成21年10月、強盗目的で、千葉県松戸市内のマンションの当時21歳の女性方居室に侵入し、両手首を縛って反抗を抑圧し、左胸部を同包丁で3回突き刺して殺害した上、裸にして放火し、犯行の隠蔽を図り、奪ったキャッシュカードで現金を払い戻したと言うとんでもない被告人に一審裁判員裁判で死刑を宣告しました。この殺人事件前後2ヶ月間に、窃盗・強盗致傷・強盗強姦致傷等8名程の被害者を出して居ます。

○一審判決理由骨子は次の通りです。
①殺意が極めて強固で,殺害態様も執ようで冷酷非情であり,放火も類焼の危険性が高い悪質な犯行であり,その結果が重大
②この事件以外の強姦等他の犯行も重大かつ悪質で、生命身体に重篤な危害を及ぼしかねず,被害者らが受けた被害も深刻
③累犯前科や同種前科の存在にもかかわらず,直近の服役を終えて出所後3か月足らずの間に本件各犯行に及んだことは強い非難に値し,一連の犯行を短期間に反復累行した被告人の反社会的な性格傾向は顕著で根深い
④)殺人被害者が1人で,その殺害自体に計画性は認められないが,短期間のうちに重大事件を複数回犯しており,他の強盗事件等でも被告人の性格傾向から被害者の対応いかんによってはその生命身体に重篤な危害が及ぶ危険性がどの事件でもあったという事情を考慮すると,死刑回避の決定的事情とはいえない
⑤被告人が反省を深めているとはいえず,更生可能性が乏しいといわざるを得ず,被害者らの処罰感情が極めて厳しい
 以上のような事情に鑑みると,被告人の刑事責任は誠に重く,死刑をもって臨むのが相当である


○私の感覚からすると、誠に正当、妥当、当然の結論ですが、控訴審東京高裁は、やはり殺人被害者は1人で計画性も認められないので、これまでの前例に比較し、この被告人を死刑にするのは無理として無期懲役刑に減刑しました。そこで裁判員裁判での判断を重視すべきとして検察官上告がなされ、その結果が注目されていました。平成27年2月3日最高裁判決は、やっぱり、前例重視で、上告棄却でした。

○裁判員裁判は刑事裁判に国民の良識を反映させるという趣旨で導入されたはずなのに、控訴審の職業裁判官の判断のみによって変更されるのであれば裁判員裁判導入の意味がないのではないかとの批判があります。これに対して、平成27年2月3日最高裁判決裁判長千葉勝美裁判官が言い訳の補足意見を出しており、以下、全文、参考に掲載します。

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裁判官千葉勝美の補足意見は,次のとおりである。

 私は,法廷意見に関連して,以下のとおり補足して私見を述べておきたい。
1 まず,裁判員制度の趣旨と控訴審の役割について,次の点が指摘できよう。
 本件は,第1審の裁判員裁判で死刑が宣告されたが,控訴審でそれが破棄され無期懲役とされた事件であり,これについては,裁判員裁判は刑事裁判に国民の良識を反映させるという趣旨で導入されたはずであるのに,それが控訴審の職業裁判官の判断のみによって変更されるのであれば裁判員裁判導入の意味がないのではないかとの批判もあり得るところである。

 裁判員制度は,刑事裁判に国民が参加し,その良識を反映させることにより,裁判に対する国民の理解と信頼を深めることを目的とした制度である(裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(以下「裁判員法」という。)第1条参照)。そして,死刑事件を裁判員制度の対象とすることに関しては,反対する意見も存するところであるが,死刑という究極の刑罰に対する国民の意見・感覚は多様であり,その適用が問題となる重大事件について国民の参加を得て判断することにより,国民の理解を深め,刑事司法の民主的基盤をより強固なものとすることができるのであって,国民の司法参加の意味・価値が発揮される場面でもある。

 ところで,裁判員法の制定に当たり,上訴制度については,事実認定についても量刑についても,従来の制度に全く変更は加えられておらず,裁判員が加わった裁判であっても職業裁判官のみで構成される控訴審の審査を受け,破棄されることがあるというのが,我が国が採用した刑事裁判における国民参加の形態である。すなわち,立法者は,裁判員が参加した裁判であっても,それを常に正当で誤りがないものとすることはせず,事実誤認や量刑不当があれば,職業裁判官のみで構成される上訴審においてこれを破棄することを認めるという制度を選択したのである。その点については,米国の陪審制度の多くは事実認定についての上訴を認めないという形での国民参加の形態を持っているが,これとは異なるものである。

 もっとも,国民参加の趣旨に鑑みると,控訴審は,第1審の認定,判断の当否を審査する事後審としての役割をより徹底させ,破棄事由の審査基準は,事実誤認であれば論理則,経験則違反といったものに限定されるというべきであり,量刑不当については,国民の良識を反映させた裁判員裁判が職業裁判官の専門家としての感覚とは異なるとの理由から安易に変更されてはならないというべきである。

 そうすると,裁判員制度は,このような形で,国民の視点や感覚と法曹の専門性とが交流をすることによって,相互の理解を深め,それぞれが刺激し合って,それぞれの長所が生かされるような刑事裁判を目指すものであり(最高裁平成22年(あ)第1196号同23年11月16日大法廷判決・刑集65巻8号1285頁参照),私は,このような国民の司法参加を積み重ねることによって,長期的な視点から見て国民の良識を反映した実りある刑事裁判が実現されていくと信じるものである。

2 次に,本件で争点となった死刑という量刑の選択の問題については,次のように考える。死刑は,あらゆる刑罰のうちで最も冷厳でやむを得ない場合に行われる究極の刑罰であるから,その適用は,慎重にかつ公平性の確保にも十分に意を払わなければならないのである。

 法廷意見は,死刑の選択が問題となり得る事案においては,その適用に慎重さと公平性が求められるものであることを前提に,これまでの裁判例の集積から死刑の選択上考慮されるべき要素及び各要素に与えられた重みの程度・根拠を検討し,その検討結果を評議に当たっての裁判体の共通認識とし,それを出発点として議論することが不可欠であるとしている。

 その意味するところは次のようなことであろう。すなわち,殺人という犯罪行為の特質やそれに対する死刑という刑罰の本質を見ると,圧倒的に重要な保護法益である生命を奪う殺人という犯罪行為に対する量刑上の評価としては,まず被害者の数が注目されるべきであり,死刑の選択上考慮されるべき重要な要素であることは疑いない(もっとも被害者の数を死刑選択の絶対的な基準のように捉えることは適切ではなく,最終的には他の要素との総合考慮によるべきものであることには注意が必要であろう。)。

 そのほか,生命という保護法益侵害行為の目的(動機)は,一般に,行為に対する非難の程度に関わるものであり,犯行の計画性は,生命侵害の危険性の度合いに直結するものであり,侵害の態様(執よう性・残虐性)等も究極の刑罰の選択を余儀なくさせるか否かの要素となることは,いずれも,これまでの裁判例が示してきたところである。さらに,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等も取り上げられ得る要素である。これらの各要素をどの程度重要なものとして捉えるかは,殺人という犯罪行為の特質や死刑という刑罰の本質という刑事司法制度の根本に関係するすぐれて司法的な判断・考察と密接に関係するものであり,これまでの長年積み上げられてきた裁判例の集積の中から自ずとうかがわれるところである。

 裁判官に求められるのは,従前の裁判官による先例から量刑傾向ないし裁判官の量刑相場的なものを念頭に置いて方程式を作り出し,これをそのまま当てはめて結論を導き出すことではなく,裁判例の集積の中からうかがわれるこれらの考慮要素に与えられた重みの程度・根拠についての検討結果を,具体的事件の量刑を決める際の前提となる共通認識とし,それを出発点として評議を進めるべきであるということである。

 このように,法廷意見は,死刑の選択が問題になった裁判例の集積の中に見いだされるいわば「量刑判断の本質」を,裁判体全体の共通認識とした上で評議を進めることを求めているのであって,決して従前の裁判例を墨守するべきであるとしているのではないのである。このことは,裁判員が加わる合議体であっても裁判官のみで構成される裁判体であっても異なるところはない。

 そして,裁判員を含む裁判体は,これらの共通認識を基にした上で,具体的事件で認定された犯罪事実等における前記各考慮要素を検討し,それらの総合考慮により非難可能性の内容・程度を具体的に捉え,結論として死刑か否かを決定するのであり,そこでは正に裁判員の視点と良識,いわゆる健全な市民感覚が生かされる場面であると考える。

3 さらに,次の点を指摘しておきたい。
 本件各犯行については,法廷意見が述べるとおり,松戸事件を除けば,その前後の約2か月間に起こした他の女性5名に対する強盗致傷,強盗強姦等では,殺意を伴うものではなく,その犯行の重大悪質性等を重く見ても,死刑の選択を根拠付けるには足りないといえるので,結局,死刑の選択については,松戸事件をどう評価するかに係っている。

 松戸事件は,死刑を選択する際の考慮要素の一つである「殺害の計画性」は認められない点が重要である。また,この事件だけ何故面識のない被害女性に対してこれほどまでの強固な殺意を抱き執ような殺害行為を行ったのかについては,殺害直前の経緯や殺害の動機がどうであったのかが問われるところであり,この点は,松戸事件の非難の程度に直接影響する重要な情状の一つである。しかしながら,本件ではこの点は明らかになっていないといわざるを得ない。そうすると,法廷意見が述べるとおり,死刑の適用には常に慎重さと公平性が求められることからすると,犯行態様が執ようで冷酷非情なものであるとしても,本件における前記の事情からすると,第1審が本件につき死刑の選択がやむを得ないものと認めた判断の根拠は合理的なものとは言い難いところである。
以上:4,620文字

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