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英語学習の思い出と英語学習再開宣言2

平成21年 7月14日(火):初稿
「英語学習の思い出と英語学習再開宣言1」の続きです。
高校時代までは得意科目だったはずの英語でしたが、大学に入ると英語授業のために小まめに辞書をひくのが嫌になり授業をサボりがちになり試験直前に泥縄勉強を繰り返し点数も悪く進級するためのギリギリの成績に落ち込み、英語に苦手意識を持つようになりました。

○大学3年になると苦手となった英語の授業からも解放され、大学3年の秋から司法試験勉強に専念し、英語に触れることは,殆どと言うより全くと言って良いほど無くなりました。司法試験に英語を必要とする科目が全く無かったからです。英語に限らず語学は常時継続していないと折角集めた知識・情報もあっと言う間に忘却の彼方に追いやられます。

「英国旅行記1」には、私の英語歴について次のように記載していました。
私は中学校までは英語を得意としていたが、高校・大学と内容が難しくなるに連れ、英語が嫌になりむしろ不得意科目と変わった。そして大学の教養部時代はほとんど英語の授業には出席せず試験だけ受ける有り様であった。もちろん成績は全て合格スレスレのCである。大学3年以降はベニーに会うまでは、英語に触れることは全くと言っていい程なかった。ベニーと会った時は、私の英語は殆ど忘却のかなたにあった。

○上記の通りつい数日前まで高校時代から英語が不得意科目になったと思い込んでいましたが、今般、高校3年の通信票を引っ張り出したら、高校3年時の英語成績は、英訳平均98点、英作平均94点、演習平均94点、難しい実力考査でも平均91点で卒業間際の最後の実力テストでは100点満点でした。ちなみに最後の実力テストの数学は僅か53点で大学現役合格が出来なかった理由が数学にあったことを改めて認識しました(^^;)。

「英国旅行記1」に記載したスコットランドの弁護士通称ベニーと出会ったのを切っ掛けに、ベニーの英会話教室の生徒となり、大学3年以来全く途絶えていた英語の勉強を15年ぶりに再開しました。昭和63年の夏、37歳の時でした。ベニーは昭和63年5月から11月まで6ヶ月間日本に滞在して帰国しましたが,その後も、ベニーとは文通を続け、更に大学の英語講師をしていたAさんの英語教室に通い、また仲間内で英単語勉強会などを続けました。

○そして2年ほど英語勉強を継続して少し自信が付いた平成2年に英検2級テストに挑戦しました。受験会場育英学園高校は、若い女性で溢れていましたが、1人場違いの草臥れた中年男が混じり、周囲からは訝しい目で見られました。ペーパーテストは問題なかったのですが、ヒヤリングが全く理解出来ず、1回目挑戦は実りませんでした。当時、難聴が進み補聴器を付けての受験でしたが、教室のスピーカーから流れる英語は、エコーがかかったゴワゴワした音になり、補聴器を通すとエコーが一層響き何を言っているのか全く判りませんでした。

○そこでその数ヶ月後、友人で英語教室を主催している方のご協力を得て、その教室を受験会場として、特別に私のヒアリングテスト専用のカセットプレーヤーを私の目の前に置いて音を大きく出して頂き、何とかヒアリングを聞き取ることが出来る環境で受験しました。その結果、何とか英検2級に合格し、よし、次は準1級だと意気込みました。

○ところがその後まもなく、私の英語学習再会の切っ掛けを作ってくれたスコットランド人弁護士ベニーが再来日し数年間ある大学の英語教師として日本に滞在しましたが、再来日の頃には日本語がスッカリ堪能になって日本人と同様に日本語が通じるようになっていました。そのため彼との会話は日本語で十分間に合い英語学習の必要性が無くなってしまい、私の英語熱もスッカリ冷め、この平成21年に至るまで18年間英語から遠ざかり、元の木阿弥で、英語はスッカリ忘却の彼方に追いやられていました。

○しかし、今般、わざわざ嫌みったらしく、高校時代の英語成績まで公開し、小松弁護士は英語はまるでダメと見下しているBさん始めとする周囲の面々を見返してやるべく、英語勉強意欲喚起を促しています(^^)。いつまで続くか問題ですが(^^;)。
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