平成18年 7月20日(木):初稿 |
○平成18年7月19日更新情報「『秀吉と家康と父に持つ男-結城秀康』を読んで」で戦国時代の歴史に興味を持っていることを書きましたが、「結城秀康」をGoogleで検索すると関連ページが3万1200件も出て来ます。作者大島昌宏氏のオフィシャルサイトにある「結城秀康 秀吉と家康を父に持つ男」も検索結果ページの6ページ目当たりに出て来ます。 ○そのキャッチコピーは次の通りです。 「秀頼はそなたの弟じゃ、くれぐれも頼むぞ」秀吉末期の言葉が秀康の耳に甦る。「なんとしてでも家康から豊臣家を守らねば」秀康は固く心に誓った。―家康の実子でありながら父に疎んじられ、秀吉の養子となった結城秀康。秀吉の薫陶を受け、その恩顧に報いようとする秀康に、危険を感じた家康はついに…。二人の天下人が父という数奇な運命を雄々しく生き、福井藩祖となった武将の生涯。 ○その他多くの歴史ものサイトで結城秀康が論じられていますが、結城秀康34歳での死因について、病死説と暗殺説があるも通説は病死説で暗殺説は少数説のようです。小説の題材とする場合は病死では面白味に欠け、前記大島秀康では、秀忠安寧のため服部半蔵によって毒殺されたことになっています。 ○色々なサイトでの結城秀康論を見てみましたが、私が見た範囲で一貫しているのは秀吉に対する恩義を強く感じていたことです。秀吉は小牧長久手の戦い後に実質人質として家康からその二男である於義丸(後の結城秀康)を養子として貰い受けますが、実子のない秀吉は心から可愛がり、実父家康に疎まれ、父の愛情に飢えていた於義丸は可愛がってくれる秀吉を実父以上に敬愛するようになり、秀吉の実子としての秀頼が生まれてからは秀頼も可愛がったと言う記述も殆どのサイトで一致しています。 ○人間の根源的欲求は「評価」されることであり、自分を強く「評価」してくれた秀吉に対し、関東の結城家に養子に出された後もずっと秀吉に対する恩義を強く感じ続けていたと言うことは、逆に言えば、実父のくせに自分を「評価」せず疎んじてきた実父家康に対するわだかまりをずっと持ち続けたものと思われます。 ○秀康は関ヶ原の戦いの論功として家康より下総結城藩10万1000石から越前北庄67万石に加増移封され、これは破格の厚遇と言われていますが、この家康の破格の厚遇の意味も色々解釈があるようです。 ○話は飛びますが、私は秀吉天下取りのスタートとなった清洲会議の主人公三法師のその後の人生に興味を持っていましたが、Googleで検索すると関連ページが1万2900件も出て来て詳しく解説されています。ネットは正に歴史勉強・散策の宝庫と実感しています。 以上:1,088文字
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