平成30年 1月 8日(月):初稿 |
○「現代ビジネス」平成29年5月9日の記事に「初公開!裁判官の『出世とカネ』こうなっている」とのタイトルでの記事が公開されています。なるほどそういうことかと、裁判官の言動の背景が少し見えてきます。私の興味があった「カネ」に関する記述を紹介します。私が修習生になった平成29年からは40年前の昭和53年当時、裁判官になって定年まで勤務すると退職金が5000万円、年金月額30万円で悠々自適の生活ができると言われ、最終的には裁判官の方が弁護士より経済的にはズッと恵まれていると言われていました。 ○40年前の昭和53年当時は、弁護士業界は、現在のような企業法務・倒産法務等ビッグなお金になる仕事はそれほど開発されておらず、弁護士は余り経済的には楽ではなく、お金で楽をしたいなら裁判官の方が良いとの感覚だったと記憶しています。ところが、20年くらい前からビジネス弁護士として巨額のお金を稼ぎ納税額が億を超えるぐ弁護士が登場し、弁護士業は、やり方次第で、お金になるビジネスとなりました。 ○更にサラ金・過払いビジネスで年間数十億単位のお金を稼いでいると豪語する弁護士まで登場し、一時弁護士はお金になる職業とされたこともあり、経済的には裁判官より弁護士の方がズッと有利と思われた時期もありました。 ○以下の記事では、裁判官の年収は10年目で1000万円、18年目「判事4号俸」1700万円までは一律昇級するも、その後、その上の地裁所長クラス「判事3号俸」年収2000万円の壁は厚く、「判事4号俸」のまま据え置かれ、定年を迎える裁判官も少なくなく、この「判事3号俸」昇級できるかが出世したかどうかのメルクマールのようです。 ○ここに到達するには上に睨まれないよう相当気を遣う必要があるとのことで、窮屈な世界との感もしました。40年前に言われていた退職金5000万円年金30万円はどうなっているのかネット検索すると「弁護士山中理司(大阪弁護士会所属)のHP」の「裁判官の年収及び退職手当(推定計算)」に詳しく解説され、「東京高裁の部総括判事が65歳で定年退官した場合の退職金は約6416万円(勤続年数が39年である場合,手取りで約5612万円)」と推定されています。山中弁護士の詳細な調査報告には感嘆しました(^^)。やはり経済的には平均的弁護士よりは裁判官の方がズッと恵まれているようです。 ******************************************** 初公開!裁判官の「出世とカネ」こうなっている エリートの知られざる「生活」と「人生」 平成29年5月9日「現代ビジネス」 司法の名の下、人の生殺与奪の権を握り、時に国家の命運を左右する力すら持つのが裁判官だ。しかし、その実像はほとんど知られていない。本当に彼らに人が裁けるのか。その内面と実態に迫る。 全国に3008人 (中略) 10年目で年収1000万円 一般企業や行政官庁ともちがって、裁判官の人事評価は、任官から20年ほどは、まったくと言っていいほど給与に反映されない。長期病欠などの特別の事情がない限り、仕事ができる、できないに関係なく、一律に昇給する仕組みをとっている。 新任判事補の基本給は、俸給表(ページ末参照)で見る限り月額約23万円で、一般企業の大卒社員の平均初任給約20万円とさほどかわらない。しかし彼らには、初任給調整手当、地域手当、勤勉手当など、民間企業にはない多数の手当が付くうえ、1年目から4・3ヵ月のボーナスが支給される。それらを合わせると年収は、約600万円となるのである。そして任官から10年が経過すると、判事補から判事に昇格。ここでようやく一人前の裁判官と認定され、年収は1000万円の大台を超える。次の節目は、約18年目の「判事4号俸」への昇給で、年収は約1700万円となる。しかし一律昇給は、ここまでで打ち止めとなる。 その上の「判事3号俸」のカベは高く、「判事4号俸」のまま据え置かれ、定年を迎える裁判官も少なくない。要するに、過去20年間の勤務評価が、この時、一気に下されるわけである。「3号俸」に昇給すると、年収は約2000万円となり、ほぼ同時に地裁の裁判長に指名される。中央官庁でいえば、局長級の給与にあたり、納得感と達成感が伴う処遇だ。「だから大半の裁判官は上目遣いで、上司に嫌われないよう、無難な判決を書くわけです。上司と衝突するような判決を書けば、3号に上げてもらえなくなりますから」 こう前置きして語るのは、ある裁判官OB(63歳)だ。 「われわれは、普通、20代半ばで裁判官になって、定年まで勤めるので、約40年という時間を裁判所という閉鎖された社会で過ごすわけです。その社会の中で生きていくわけだから、誰もが、楽しく気持ちよく仕事をしたい。住民訴訟などで国を負けさせたりすると、偏向していると後ろ指をさされ、変わり者だと白眼視される。挙げ句、同期より処遇で遅れるというのは、さすがに辛い。しかも遠くへ飛ばされるかもしれない。家族を連れていけないとなると、単身赴任ですから、それはかなわんわけです。」 具体的な事件の処理については、誰からも指示を受けることはない。しかし疎外感や、任地のことを考えると、公平無私の立場から判断することよりも、自主規制し、適当なところで妥協した判断を下しておこうと考えるのだという。要するに、彼らもまた、その崇高な使命感とは別に、一市民としての悩みや弱さを抱え持つ生身の人間なのである。 出世できない裁判官の屈辱 裁判官として事実を見る目が確かで、着実に事件を処理し、紛争を解決する識見に富んでいたとしても、人事で差別される人はいる。あるべき司法の姿を議論するために、1971年に立ち上げられた「全国裁判官懇話会」の主要メンバーたちである。同懇話会は、結成当時、210名の裁判官が議論に加わったこともあったが、徐々に会員が抜けていき、2007年に解散した。その間、一貫して裁判官の人事制度の透明化を求め、その改革案を示すなど、最高裁に問題提起し続けてきた。 その熱心なメンバーのひとりだった伊東武是(72歳)は、「3号」に上がるのが、同期より2年近く遅れている。伊東は、東大法学部を卒業後、25歳で任官。定年の65歳まで、40年にわたって裁判官を勤め上げ、現在は弁護士として活動している。神戸市郊外の自宅の書斎で、当時を振り返りながら語った。「任官20年を過ぎる頃には、同期の連中は3号になり、裁判長になっている。なのに、僕は4号のままで据え置かれたのは、辛かった。 僕自身が、仕事の面で優秀じゃなかったところがあるのかも知れないけれど、この遅れは懇話会で積極的に発言をしているからだと思ったものです。3号に昇給しないということは、給与の問題もあるけれど、みんなより一段低いところを歩まんといかんわけです。田舎の優等生でずっと来ましたから、遅れるということに慣れてなかったんでしょう。同期会があっても、なんとなくみじめな気がして、出れなかった。」、このまま懇話会の活動を続けるか、懇話会を辞めて、普通の裁判官としてやるか、大いに悩んだという。 任官して22年目のお盆休みに、車で郷里の愛媛県宇和島に帰るにあたり、妻にこう言った。「すまないが、今年はひとりで帰らせてくれ」、悲痛な表情の伊東を見て、察するところがあったのだろう。夫人は、理由を聞こうともせず、無言で送り出した。帰省の途中、伊東は、四国の山中や川沿いにテントを張り、3日間、星空を見ながら考えを巡らした。やがて心が落ち着き、自分は、立身出世のために裁判官になったわけではない。甘んじてこの屈辱を受けよう。それも自分が担うべき役目なのだと、腹を決めたという。 「3号になってからも、裁判長のお呼びがかからず、ようやく念願の裁判長になれたのは59歳。ほかの人より10年以上遅れているんです。裁判長以下、3人の裁判官で審理する合議体において、ベテランが座る右陪席のままでね。陪席裁判官は、嫌な裁判長のもとでも我慢して仕事しなきゃならんし、年下の裁判長につくことだってある。やっぱり、自分の意見が通り、自分の判断が下せる裁判長というのは、裁判官になった以上、誰もが望むやりがいのあるポストなんです」 地裁の所長から、このまま裁判所にいても居場所がない。公証人になってはどうかと勧められたこともあった。しかし、最後まで裁判官をまっとうしたいと告げている。その後、大阪高裁で右陪席を務めた時、上司だった裁判長がいろいろと掛け合ってくれ、神戸地裁姫路支部の裁判長への声がかかった。「『伊東君、残念だけどこのポストしかない。どうする?』と言われた時、即座に、行かせていただきますと返事しました。」 節を曲げることなく、最高裁に意見具申してきた伊東の処遇が遅れたのは、むしろ当然のことだった。遅らせることで、他の裁判官への波及効果が生まれ、裁判官を統制しやすくなるからだ。このように、裁判官の自主規制が横行し、統制に甘んじるという姿勢が蔓延すれば、いったい、国民にはどんな不利益がもたらされるのか。そしてどんなツケを払わされることになるのか。 岩瀬達哉(いわせ・たつや) 55年、和歌山県生まれ。'04年『年金大崩壊』『年金の悲劇』で講談社ノンフィクション賞を受賞。その他著書多数 以上:3,808文字
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