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担任教諭の体罰直後自殺に学校側損害賠償責任を認めた判例紹介1

平成29年 5月26日(金):初稿
○「担任教諭の体罰直後の自殺に学校側損害賠償責任を認めた判例要旨紹介」の続きで、平成21年10月1日福岡地裁小倉支部判決(判例タイムズ1321号119頁)判断部分を3回に分けて紹介します。太下線は私が引いたものです。

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第三 当裁判所の判断
一 認定事実
(証拠省略)によれば、以下の事実が認められる。


(1)一郎は、原告ら両親と、12歳上の長男及び4歳上の姉との5人家族であった。
 一郎は、幼いころ体が弱かったため、原告らから、体力を付けることを一番に育てられ、学外のジュニアバレーボールチームでは、小学3年生からレギュラーで活躍し、平成18年1月には、チームのキャプテンになり、市大会で優勝して県大会に出場した。友人も多く、周囲の父兄からもかわいがられていた。また、家族仲も良く、姉とは一緒にバレーボールをしていた。
 一方、一郎は、小学1年生のころから、学習面での遅れや宿題忘れ、忘れ物等が目立つ児童であり、落ち着きがなく、3年生のころには、教員が横にいないとノートをとらなかった。
 一郎は、平成18年3月(5年生)当時、身長約134cm、体重約31kgであった。

(2)CC教諭は、昭和54年に大学を卒業後、北九州市公立学校教員に任命され、4つの小学校での26年間の教員経験を経て、平成17年4月にBf小に赴任し、一郎が在籍する5年3組の担任教諭となった。また、CC教諭は、5年生の学年主任を任されており、周囲の教員からは、あまり感情を表に出さず、まじめかつ誠実に仕事をこなす人物として信頼されていた。
 CC教諭は、しかるべきはしかるということを教育方針のひとつとし、比較的細かいことにもしかることが多かった。
 CC教諭は、身長約160cmの細身の体格であった。

(3)一郎は、5年生になると、体育と図工の授業を除き、最初の5分ないし10分しか授業に集中できず、注意されないと、自分の席で漫画を読んだり、落書きをしたり、机にふせたりしていた。CC教諭が指導すると、気分のいいときは素直に聞き入れたが、気分の悪いときは、「いいやないか。」、「関係ないやないか。」と言って、反抗することも多くあった。CC教諭のしかる声や、一郎の反抗する声は、しばしば隣のクラスにも聞こえていた。
 また、一郎は、自分の筆入れや布製のバッグをはさみで切ったことがあり、CC教諭が注意をした。

(4)二学期になると、一郎は、日がたつにつれて、CC教諭の指導に反抗することが多くなり、多いときは毎時間のようにしかられては反抗していた。一郎は、指導を受けると、「うるさい。」、「関係ない。」、「くそばばあ。」などと言い、教室を飛び出すことも10回近くあった。教室を飛び出したときは、すぐに戻ってきたり、CC教諭が迎えに行くと戻ってきたりしていて、一時限の間中戻ってこないことはなかった。

(5)平成17年11月ころ、CC教諭が一郎を放課後に残して勉強させようとしたとき、一郎が拒否したので、CC教諭が「そんなんやったら家に連絡せないけんね。」と言うと、一郎が興奮して、ランドセルをCC教諭に向かって投げつけ、ランドセルがCC教諭の足下に落ちた。CC教諭は、家には連絡しないと言って、一郎の興奮を鎮めようとしたが、一郎の興奮は10分程収まらなかった。
 その他にも、一郎がCC教諭に向かってランドセルを投げつけたことが、二学期に一回あった。


(6)一郎は、5年生になってから、一緒にバレーボールをしていたBN春夫(以下「春夫」という。)や、その弟のBN夏夫(以下「夏夫」という。)に対し、CC教諭からたたかれ、つねられた、腕をひねり上げられたなどといって、CC教諭に対する不満を度々口にしていた。

(7)三学期になると、一郎は、個人指導の塾に週に2日通い始め、学校でも、CC教諭の指示に素直に応じることが多くなったが、2月中ごろ以降は、再び以前のように、CC教諭の指導に反抗することが多くなった。

(8)平成18年1月25日ころ、一郎は、ふだんよりも早い時刻に、パーカーを頭からかぶって帰宅し、原告花子及びDFに対し、「学校辞めたい。辞めれんの。CCがたたくけ、もう行きたくない。」と泣きながら訴えた。原告花子が事情を聞くと、一郎は、「友達とけんかになったけど、CC先生は俺の言うことを何も聞かんで怒るばっかしやし。」と答え、泣きながらソファーの上にひざを抱えて座り込んだ。原告花子は、Bf小に電話をかけ、CC教諭に対し、「とにかく一郎の言うことも聞いてください。そしてたたいたりしないで、学校を飛び出したりしたらすぐ連絡下さい。」と話した。CC教諭は、これを了承した。

(9)平成18年3月16日、Bf小では、翌日の卒業式を控え、三校時は卒業式のリハーサル、四校時は道徳の時間、5、6校時は学校の掃除と卒業式の準備となっていた。一郎は、午前中に歯医者に行って、昼前から登校し、5、6校時は、職員室とその前の廊下の掃除を担当することとなった。
 一郎は、給食準備中に鬼ごっこをしたり、清掃時間中にチャンバラをして遊んでいるところを、5年1組の担任教諭に見つかって注意を受けた。その後も、一郎が友人と走って職員室に入ろうとしたので、同教諭が注意をすると、一郎は、「何で僕ばっかり。」と言っていた。また、午後2時過ぎには、一郎が玄関前でほうきを振り回して遊んでいたため、事務職員が注意した。

(10)6校時の終わりころ(午後3時半ころ)、CC教諭が6年生の教室で飾り付けをしていたところ、5年3組の女子児童の一人が、Aを連れてやってきた。Aは、顔を押さえながら泣いていた。女子児童は、「AR君が振り回していた棒が、Aさんに当たった。」と説明した。Aは難聴のため、人工内耳を装着している児童であった。CC教諭がAの顔を見ると、傷はなかったが少し赤くなっていた。CC教諭は、教室で待つように2人に伝え、先に教室に帰らせた。なお、Aの顔に当たった「棒」とは、新聞紙を棒状に丸めたものであった。

(11)
ア 本件懲戒行為

 その約5分後、CC教諭が5年3組の教室に入ると、児童らは机の上にランドセルを置いて帰りの準備をしていたが、一郎の姿は見えなかった。CC教諭が、教室に落ちていたほうきを拾って掃除用具入れに入れようとすると、中から一郎が飛び出し、自分の席に横向きに着席した。
 CC教諭は、一郎の前に移動し、「謝りなさい。」としかったが、一郎が「謝ったっちゃ。」と言って反発したため、両者は大声で言い争いになった。CC教諭は、いすに座っている一郎の胸ぐらを両手でつかみ、一郎の身体をゆすったため、一郎はこれに抵抗し、いすから床に倒れ落ちた。一郎が「帰る。」と言うと、CC教諭は「勝手に帰んなさい。」と大声で言い返し、教室前方の黒板の方に向かった。他の児童らは、CC教諭がふだん以上に激しく一郎をしっ責する様子を見て、静まりかえっていた。

イ 本件事後行為
 一郎は、教室後方の出入口に向かって走り、出入口付近に置いてあった、水が半分程度入った500mlのペットボトルをCC教諭に向かって投げつけた。同ペットボトルは、CC教諭の近くの壁に当たった。一郎は、泣くのを必死に堪えるような表情をして、教室を飛び出していった。
 CC教諭は、一郎を追いかけることなく、ホームルームを始めた。数分後、一郎は後方の出入口から教室に入ってきた。すると、CC教諭は、「何で戻ってきたんね。」と怒鳴り、一郎は、自分の席にあったランドセルを取って、再び教室を飛び出していった。
 数分後、CC教諭はホームルームを終え、児童らを下校させた。
 CC教諭は、上記の出来事を原告らに連絡せず、一郎の自殺を知るまで、Bf小の管理職にも報告しなかった。なお、5年3組の教室には、職員室と連絡が取れるインターホンが設置されていた。


(12)同日、原告花子は、DFと買物に出かけており、午後4時半過ぎに帰宅した。一郎の部屋に入ると、一郎がシャンデリアにかかったひもで首をつっていた。原告花子は、二階にいた一郎の姉を呼び、二人で一郎の首のひもを外してベッドに寝かせると、消防に通報し、DFに連絡した。DFは、警察に通報し、原告ら方に駆け付けた。

(13)その後、救急隊員が原告ら方に到着した。DFは、原告花子に促されて、Bf小に電話をかけ、CC教諭を呼び出した。電話に出たCC教諭は、DFを原告花子と勘違いし、「お母さん、一郎君どうしてます。」と聞き、DFが何かあったのかと尋ねると、「今日、一郎君が女の子をたたいたのできつくしかったんですよ。そしたら謝らないので、胸ぐらをつかんでゆすったら、一郎君がこけてしまって。」と答えた。これを聞き、DFは、一郎が自殺したことを伝えた。

(14)一郎は、原告花子の付添いで病院に搬送されたが、同日午後6時10分、死亡が確認された。その後、校長が病院に来たので、原告花子が事情を聞くと、校長は、一郎が耳の悪い女子児童の頭をほうきの棒でたたいたので、CC教諭が一郎をしかった旨説明した。その後、一郎の祖母が病院に来ると、同人と原告花子の間で、本件がマスコミに報道されることを嫌がる会話がなされた。これを聞いた校長が、学校もマスコミの取材には応じない方針でよいかと聞き、原告花子がこれに同意した。
 同日午後9時ころ、一郎の遺体が原告ら方に戻された。同日午後10時半ころ、校長及び教頭が原告ら方を訪れた。お参り後、校長は、学校がマスコミの取材に応じないことについて、原告太郎の了承を得た。

(15)平成18年3月17日の朝、校長は、若松警察署に電話をかけ、原告らがマスコミから取材を受けることを望んでいないことを伝えた。また、原告花子に電話をかけ、原告らからも警察に電話をかけることを促した。すると、DFから電話がかかり、原告花子は動揺のため電話の意味が分からなかったというので、DFにも同旨の話をした。DFは、若松警察署に電話をかけ、原告らの意向を伝えた。

(16)同日、Bf小の卒業式が終わると、校長は、5年生の児童を体育館に集め、一郎が亡くなったこと、原告ら家族がそっとしてほしいと望んでいることを伝えた。その後、5年生の児童を各教室に移動させ、担任教諭(5年三組は教務主任)及びカウンセラーが、「こころの健康調査票」と題する用紙を配付して児童らに記入させ、これをもとに、児童一人ずつに対してカウンセリングを行った。「こころの健康調査票」は、上段が、体調や気分に関するチェック式のアンケート、下段が「今の気持ち」に関する記入式のアンケートになっており、記名式のものであった。
 また、同日夕方、Bf小は、5年生の保護者会を開き、児童の心のケアについての資料を配付するなどした。


(17)同日夜、一郎の仮通夜が行われた。DFは、Bf小に電話をかけ、CC教諭の参列を催促した。その後、校長らが原告ら方を訪れ、DFの指示で参列者が減るのを待っていたところ、校長らに気付いたマスコミたちから、取材に応じるよう強く求められたため、校長は、原告らの了承を得てから取材に応じることを約束した。その後、校長らが原告ら方に入った。原告花子が、CC教諭に対し、一郎は本当にほうきの棒でたたいたのかと尋ねると、CC教諭は、「いいえ、紙の丸めたものが当たっただけでした。」と答えた。原告花子は、一郎の話を聞かなかったことについて、CC教諭を非難した。また、同席した原告らの親せきらも、学校を激しく非難した。
 帰り際、校長は、原告太郎に対し、マスコミが多数来ており、対応せざるを得ないため、対応してよいかと聞き、原告太郎の了承を得た。原告ら方を出た校長は、マスコミの取材に応じた。

(18)同日、原告花子は、一郎の机の中から、一郎が使っていた漢字の練習帳の表紙の裏に、「へいかわまつこしね」と書かれ、その字の上をなぞるように表紙がはさみで切られたものを見付けた。

(19)平成18年3月18日の朝刊に、校長の「しかったあとのフォローが足りなかった。学校側の責任も感じている。平成17年秋ころから担任との関係が悪化して心配した家族が学校側に相談していた。」とのコメントが掲載された。原告ら方にもマスコミが押し寄せたが、原告らは取材拒否を続けた。一方、同日夜の各局のニュースで、校長のコメントが報道された。
 同月19日にも、原告らの認識と異なる報道がなされたため、同日の一郎の葬儀後、DFが記者会見を行い、以前からCC教諭に、一郎の話を聞いてほしい、学校を飛び出したときには家族に連絡してほしいと頼んでいたということや、一郎の自殺直後のDFとCC教諭との電話の内容等を話した。

(20)平成18年3月24日、原告花子は、原告ら方を訪れた校長に対し、事実解明を申し入れた。
 このころから、原告ら方には、一郎の同級生の父兄から電話がかかってくるようになった。その内容は、一郎の自殺当日の出来事や、以前からCC教諭が一郎をよくしかっていたことについてのものであった。

(21)平成18年3月28日、原告花子及びDFは、北九州市内の弁護士に相談に訪れた。原告花子が、学校側に事実を認めて謝罪してほしいとの意向を説明すると、弁護士は、調査委員会等の設置を求めるよう助言した。そこで、原告花子らは、調査委員会の設置を求めるため、同級生らから情報を集め始めた。

(22)平成18年3月31日、CC教諭は、教員を退職した。

(23)平成18年4月1日、校長、教頭及びCC教諭が、原告らに対する事情説明のため、原告ら方を訪れた。校長は、今回の件は教育的指導の範囲内の出来事であったと説明し、CC教諭は、一郎が教室を飛び出してもすぐに帰ってくるだろうと思っていた、原告ら方に連絡するつもりはなかったと説明した。原告花子及びDFは、同級生の父兄から聞き取った内容に基づいて質問し、「こころの健康調査票」について尋ねるつもりで、「アンケート」という呼び方をしながら、その内容を明らかにするよう質問したが、校長は、教育的指導の一環であったとの認識を繰り返し、尋ねられたアンケートとは、カウンセラーの行ったものを指すと理解した上で、その内容は分からないと説明した。また、CC教諭は、一郎に対して体罰や暴力的行為をしたことはないと話し、同年1月25日ころの原告花子との電話のやり取りも、一郎の自殺当日のDFとの電話のやり取りもすべて否定した。

(24)平成18年4月4日、DFは、市教委に電話をかけ、本件に関する説明を求めたが、調査中との回答であった。DFは、市教委に対し、一郎の遺族からも事情聴取をするよう求めた。

(25)平成18年5月26日、市教委のEA及びApが原告ら方を訪れた。原告花子及びDFは、同年1月25日ころの出来事(上記(8))を話し、同年3月16日以降の学校側とのやり取りをまとめた書面を市教委に提出した。また、校長から、児童らのアンケートについて聞いたことや、一郎の同級生から聞き取った内容を伝え、Bf小が作成した事故報告書の開示を申入れたが、市教委は、現在も調査中であるとして、開示を断った。
 同日夕方、原告花子、DF及びその友人が、一郎の自殺当日の話を聞き取るため、一郎の同級生のCf秋夫(以下「Cf」という。)の自宅を訪れた。Cfの自宅には、一郎の同級生のDAも来ていた。原告花子らは、Cfの母親の許可を得て、CfとDAの話を聞き取り、ノートに記入した。

(26)平成18年6月15日、DFは、一郎の同級生のEO一江(以下「EO」という。)の母親が話していたこととして、以前からCC教諭が一郎の手の甲をつねったり、げんこつを押しつけたりしていたという話を又聞きした。

(27)平成18年7月22日、DFは、Cfの陳述書をワープロで作成して、Cfの自宅に持参し、Cfとその母親に陳述書を読んでもらい、両名の署名捺印を得た(同陳述書を始め、提訴前に作成された陳述書については、作成当時、裁判の証拠にするとの認識は、原告らにも、陳述した同級生やその保護者にもなかった。)。その後、DFは、DAの自宅も訪ねたが、DAの母親は、自分が学校教諭であるからと言って、陳述書への署名捺印を断った。
 同日、DFは、EOの自宅を訪ねた。DFは、他の同級生から聞き取った内容を、ひとつずつEOに確認した。EOの母親も、娘の話を聞いて、陳述書の作成を約束したが、後にこれを断った。

(28)平成18年8月31日、DFは、一郎の同級生のAm二江(以下「Am」という。)のところに、陳述書の署名をもらいに行った。Amとその母親は、DFが作成した陳述書に目を通し、署名捺印した。
 Amの陳述書は、以前から、DFや原告花子、バレーボール関係の父兄らが、Amから少しずつ聞き取った内容を、DFがワープロでまとめたものであった。なお、DFは、Amから聞き取りをする際には、それまで他の児童から聞いた内容をひとつずつ確認するように尋ねていた(後述する他の児童からの聞き取りについても同様であった。)。

(29)平成18年9月5日、原告花子及びDFは、福岡市の弁護士八尋八郎(以下「八尋弁護士」という。)に相談に訪れた。八尋弁護士は、原告らが用意したCfとAmの陳述書をつづり、同日付けで確定日付を取得した。

(30)平成18年9月12日、市教委のEA及びApが原告ら方を訪れ、原告花子及びDFに対し、Bf小が作成した事故報告書を見せた。原告らは事故報告書をもらいたいと申し出たが、EAらは、公文書なので渡すこともコピーをとることもできないと説明した。

以上:7,224文字

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