平成28年 7月17日(日):初稿 |
○私は、弁護士になって2,3年目の昭和57,8年頃から、ズッと継続して「書店では手に入らない、月間総合情報誌」、「三万人のための情報誌」とのキャッチフレーズの「選択」を30数年間に渡って定期購読しています。選択公式HPでのバックナンバーは、2001(平成13)年7月号までは閲覧できますが、それ以前のデータはありません。 ○その「選択」の昭和50年3月創刊号が、平成27年2月創刊40周年記念として贈呈されました。昭和50年3月と言うと私は、大学卒業1年目で郷里気仙沼に戻って司法試験勉強に明け暮れていた頃です。創刊号も価格は1冊1000円、年間1万2000円の年間予約のみで、到底、浪人の私には手が出ませんでした。この雑誌、創刊以来41年以上経ていますが、価格は変わらず年間1万2000円です。昭和50年の1万2000円は今の2倍の価値はあるはずで、随分、高い雑誌でした。 ○その「選択」昭和50年3月創刊号74頁に国内経済記事として「『刎頸の友』小佐野賢治はいま…」があり、目次には「角栄がカムバック構想を固めれば”フンケイの友”小佐野賢治は沈黙を続ける 田中賢治株式会社の実態はなにか 無傷で終わか、最後の怪物!」とあります。 以下、この記事の備忘録です。 ・田中前首相が退陣して3ヶ月たったが同氏の周辺では、西村英一、二階堂進、竹下登、小沢辰男氏らを中心に、田中再起の基本計画が立てられた。それによると、最終目標を5年先に置き、当面は(1)身辺整理、(2)大平正芳の政権獲得の援護を柱にしている。 ※翌昭和51年2月発覚ロッキード事件で、同年7月田中氏が逮捕されて事態は一変しました。 ・その後の田中角栄氏との出合いはよく知られている。いつの間にやらフンケイの交わりをするようになり、そして”田中賢治”株式会社の結成。田中氏が総裁選へ出馬した際には30億円近いカネを援助したといわれ、参院選のときにも田中派増大のためテコ入れ。 ・田中氏は「角さん自身が自らのスポンサー」といわれるように、せっせと自分で儲ければ、小佐野氏もまた”フンケイの友”を徹底的に利用し、自分だけ儲けていた。 ・田中氏自身は天才的な事業家。たとえば、池田勇人元首相が佐藤派の代貸だった田中角栄氏を二度に渡って大蔵大臣に起用したのは、なぜか。「こんど5億円のカネを儲けましたが、総理、あなたに4億差し上げます。私は1億でいいですよ。」といった調子で取り入ってしまうからだ。そしてその後は、池田の庇護をかくれミノにして、田中独自の商いを自由奔放にやったといわれる。 ・小佐野はいま韓国・済州島の開発に全精力を傾けている。(中略)韓進財閥を通じて朴政権に食い込んだのは、なんと岸・福田ルートを使ったからだよ。事業家というものはつねにそういうもので、何面チャンも張っているものだ。いま小佐野の新しい”守護神”は、田中政権末期に田中を攻撃した右翼の大物・児玉誉士夫さんというじゃないですか。 以上:1,219文字
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