平成24年12月 2日(日):初稿 |
○「2012年12月1日発行第90号”利己的な弁護士”」で、私は、「私は、世のため人のためになろうなんて大それた気持はこれっぽっちもない。」だけでなく、「人生所詮自己満足」と公言してはばからないとんでもない人間であることを告白しています。 ○私は「人生所詮自己満足」を私自身の究極的人生観として確信していますが、このように考える理由は至極簡単で、こう確信すると人生を楽に生きられるからです(^^)。このHPで繰り返し述べていますが、このHPを平成16年8月1日から今日まで毎日、毎日、飽きもせずくだらない駄文を書き連ねることが出来るのも、この「人生所詮自己満足」の精神があるからです。 ○他人がこのHPを読んでどのように感じるかなんて、そんなことはどうでもよい、オレはオレが自己満足するため好きなように自分のために書いているんだと考えると、実に気楽に書くことが出来ます。しかし、「人生所詮自己満足」の精神は、こんなHP毎日更新なんてことより、もっと大きな効用があります。他人の目を、「さほど」気にせず、好き勝手な生き方が、「少しは」出来る様になることです。 ○ここで「さほど」、「少しは」と形容詞を入れたのは、他人の目を「完全に」気にせず生きることは、人間である以上不可能だからです。余り読書をせず、教養に欠ける私ですが、私の生き方に最も大きな影響を与えて頂いた著作が、故谷沢永一先生の名著「人間通」です。この名著「人間通」に接して以来スッカリ谷沢ファンになってしまった私は、書店で「谷沢永一」と言う名前が入った書籍は、中身も確認せず見境なく購入し続け、田中角栄本と同様にいまや数十冊になっています。 ○田中本と同様、積ん読が多いのですが、ザッとは目を通し、琴線に触れる部分に赤線を引いており、相当数の赤線になっています。谷沢本を集めるようになったのは、40代半ば以降ですが、それまでの40数年の人生で自分なりに考えながら、考えがまとまらず巧く表現できない事柄などについて、谷沢本では、ズバリ小気味よく、核心を突いて、的確に表現されており、「あっ、これだ」と膝を叩くことが良くありました。谷沢本は、私の琴線に触れる表現が多々あり、大変、勉強になり、勝手に谷沢先生を人生の師と仰いでおります。 ○以下、その谷沢永一先生の名著「人間通」で出会った表現に、特に、「これだっ!」、と膝を叩いた部分の備忘録です。谷沢先生の著作を通じて、徐々に私の「人生所詮自己満足」の精神が確立されていきました。谷沢先生には、誤読・曲解だ!と叱られるかも知れませんが(^^;)。 「人間は最終的にとことんのところ何を欲しているのか。それは世に理解されることであり世に認められることである。 理解され認められれば、その心ゆかたな自覚を梃子として、誰もが勇躍して励む。それによって社会の活力が増進し誰もがその恵にあずかる。 この場合、世間とは具体的に自分に指示を与える人であり働きをともにする同僚である。この人たちから黙殺または軽悔されるのは死ぬより辛い。逆に自分が周囲から認められているという手応えを得たときの喜びは何事にも替え難い。」 「自分はいつも機敏に身を処して誰にもおくれをとっていないのだと考えるとき、腸の底からこみあげてくるような喜びが味わえる。凌ぎたい。出し抜きたい。それがすべての人間をかりたてる共通の行動原理なのである。」 「人間が生涯をかけて最も強く追い求め欲しがるものはなにか。 詰まるところはただ一筋、自分が世間から少しでも高く認められる評価である。」 「人が何事かにひたすら努め励むのは、自分の名前を世に広めてもてはやされたいからである。 人間は息をひきとるまで生涯をかけて、私を認めてくれ、私を認めてくれと、声なき声で叫びつづける可憐な生き物なのだと思われる。」 以上:1,562文字
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