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平成14年 7月15日(月):初稿 平成16年10月23日(土):更新 |
親子関係を考えるに当たって、私には生涯忘れられない二つの光景があります。 一つは、昭和51年暮れ、当時、私が25歳、父64歳で、父が出稼ぎの鰹漁から帰り、湯船に浸かっていたとき、司法試験不合格の報告をしたときのことです。 私は、父が40歳の時、4人姉弟の二男として生まれました。長男は3歳で夭折しましたが、10歳年上の長女が婿養子を取り、私は実質的にも二男に戻りました。父は、15歳から漁船に乗り組み、55歳まで、サンマ船や遠洋鮪船の船頭(漁労長)をしていました。55歳の時、船頭を辞めることになり、鰹船の平船員に戻りました。当時、長女夫婦が家督として家を継ぎ、孫も出来、引退しても良かったのですが、二男で末っ子の私が高校一年で大学進学を希望していたため、もう一働きすると言って平船員に戻ったのです。 私は一浪して東北大に入り、大学4年の時、司法試験を受け始め、卒業後も勉強継続したいと父に言うと、当時62歳の父はまだ働けるから頑張れと快く励ましてくれました。それが卒業1年目、2年目と司法試験に落ち、私は25歳、父は64歳になりました。父は、鰹船に乗り組んでからは、三重県が本拠地で、郷里気仙沼に帰るのは、盆と正月だけで、毎年、暮れになると真っ赤に日焼けした顔で帰り、正月明け早々に三重に出かける生活を続けていました。 64歳になっていたその年は、母を始め周囲は、もう年齢も年齢なので、激務の漁船員は引退して貰おうと思っていました。長い出稼ぎから帰った父は、真っ赤に焼けした顔で、いかにも疲れたと言う表情で、湯船に浸かっていました。図書館から帰った私は、父に、「とうちゃん、申し訳ない、又落ちてしまって。」と言うと、父は、湯船に浸かりながら 「気にするな。俺ももう1年働けるから、お前も頑張れ」 と何事もないかのように言ってくれたのです。私は胸が張り裂けそうでした。 ■鰹船乗組員は激務 25歳にもなって将来の当てもなく、65歳になろうとする老父を激務の漁船員として働かせ、何と情けない男だ、発奮した私は翌年ようやく念願を果たしました。あの時の父の真っ赤に日焼けした顔は今でもくっきり瞼に焼き付き、私の生涯の思い出となっております。父のあの言葉がどうしてあれほど私を感動させたのかは、弁護士になって初めて覚りました。全く押し付けが無かったからでした。 以上:968文字
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