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保阪正康氏著”昭和史の急所 戦争・天皇・日本人”の田中角栄紹介

令和 1年 6月22日(土):初稿
○保阪正康氏著「昭和史の急所 戦争・天皇・日本人」136頁から147頁まで田中角栄氏について記述されています。以下、その備忘録です。

・宮沢喜一元首相の田中角栄評
「田中さんは天才的な発想ができる人だった。役人出身の私たちとは発想が違っていた。どの登山口から登ろうが、富士山の頂上に行ってしまうようなところがあった。」

・田中と同じ大正7年生まれの男性評
「わしが田中さんを尊敬しているのは、あの人が戦争が嫌いだったと思うからや。あの人は仮病を使ってでも軍隊を離れたのではないかと思う。」
田中さんは『兵隊なんかやっとられん、戦争なんかで死んでたまるか』と言うタイプだと思う。だからわしは信じるんや

・軍隊を抜ける三つの方法
軍隊を抜ける三つの方法の一は自殺、二は脱走、脱走は死に直結し、家族・係累が非国民として悲惨な目に遭うので論外。
三の結核を装っての病気除隊が一番容易。
そのためには診察に当たる軍医の選別が重要で、陸軍の軍医委託医師や陸軍奨学金で医者になった者は、この仮病作戦をよく知っているので騙せない
狙いは一般の大学医学部を卒業し軍医となった者で、仮病に慣れていない上に、目の前の患者が「故郷の母が心配」などと言うと同情してくれる
仮病による脱出作戦が成功するかどうかは、自分の病院にどんな学校の出身でどんな性格の軍医がいるか、その軍医の診察日はいつかについての正確な情報を知り、この軍医の診察日に演技を敢行して、一度内地に戻れば二度と戦地に繰り出されることはなくなる
このように合法的に軍隊から抜け出した元兵士は少なくない、田中角栄もその一人と推測
戦わざる兵士であった田中角栄は、同世代が幼児期にスペイン風邪の流行に見舞われ、長じてからは結核と闘い、戦争で多くの男子が30歳前に戦死する体験を持っていることに、密かにある種の責務を課した

・カネについての三つの教訓
炭管汚職に連座逮捕され無罪となった田中角栄はこのプロセスで三つの教訓を得た
一は、政治資金は自前で調達し、他人からの献金に頼らないとの哲学、献金はつねに贈収賄の危険があるから
二は、法律に熟知すること、後に熟知から法律の作成に積極的に関わる
三は、地元新潟三区陳情はなんとしても実現する、選挙に落ちないため

・義理と人情が嫌と言う人は、その考え方が嫌ですな
田中角栄の言葉
「義理と人情というものがね、非常になんか嫌なものだと考える人がいたとすれば、それはその人の考え方が嫌な考え方ですな。自分一人が忽然として今日があるんじゃないんだ。長い歴史の中で、人の庇護や、人の理解のもとに今日がありとしたならば、おのずから義理も人情も生まれてくるんじゃないか、と思いますよ。何か義理と人情という言葉自体が古いものであり、反現代的なものでありというようなことを考えること自体おかしいと思う」
年齢が増すと誰でもこの程度のことは口にするが、田中角栄が口にすると「庶民政治家」として讃えられる。

・田中角栄がいまも光を放つ理由
国民の欲望そのものを、田中は代弁していた。信念や理念より目に見え手に取ることができるカネやモノに信頼を寄せる国民の心理的・文化的レベルを、田中は正直に国民に見せつけた。田中は時代によってつくられ、次には田中が時代をつくる役を演じたが、しかし次には国民は田中を捨て去り、自らは「田中角栄」と言う普通名詞と一線を画する側に立ったのであり、その巧妙さが戦後社会の大衆の姿でもあった。
昭和の時代あの戦争で国家は国民の生命と財産を冒涜したが、それを批判するために田中の説いた国民の生活や生命を保障する国民国家の視点からの論理がつくられていかなければならない、これが田中角栄の託した遺言である。

以上:1,517文字

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