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”小沢昭一の小沢昭一的こころ”の思い出3

平成24年12月22日:初稿
○「”小沢昭一の小沢昭一的こころ”の思い出」にかこつけた経済的側面中心の私の司法試験受験時代から司法修習時代までの思い出備忘録です。
”小沢昭一の小沢昭一的こころ”の思い出2」では、昭和45年4月から昭和50年3月までの仙台での学生生活について、当初1年間は文理予備校に通い、朝食・夕食付きで月額1万3500円の下宿生活、昭和46年4月から9月までは朝食・夕食付きで月額1万2000円の下宿生活、同年10月からは月額5000円の間借り生活で、実家からの仕送りは5年間継続して月額2万円と記載していました。

○昭和46年4月大学入学後は、昭和50年3月まで月額6000円の特別奨学金を借り、また、昭和46年5月頃から家庭教師のアルバイトが見つかり一時は2件に増えた家庭教師アルバイトを3年終了時まで継続し、その間、夏休み等には引っ越し手伝い、石油ストーブ洗い等の単発的アルバイトをして、大学3年までは比較的余裕のある経済生活で当時としては大金の5万円もするフラメンコギターを自分で稼いだお金で購入することも出来ました。

○昭和49年4月の4年次からは、司法試験受験勉強専念と称して、アルバイトは全て辞めて、実家からの仕送り2万円と特別奨学金6000円の1ヶ月2万6000円での生活となりましたが、間借り部屋代5000円を支払い、残り2万1000円で自炊での3食を取るだけの生活でしたので、別に経済的に苦しいとの感覚はありませんでした。

○大学4年次は就職は一切考えず受験勉強に専念し、留年して大学5年での司法試験合格を目指しましたが、「難聴に至るまで-司法試験受験時代」に記載した想定外の大量の耳だれと大きな耳鳴りを伴う右耳化膿性中耳炎再発によってその治療を受けるため、昭和50年4月、仙台の間借り部屋を引き払い、郷里気仙沼の実家に戻って受験勉強を続けることになりました。当時、63歳で漁船員をしていた父から毎月2万円の仕送りを貰い続けるのに気が引けたとの事情もあったからです。

○昭和50年4月気仙沼の実家に帰ってからは、当然、仕送りはなくなり、せめて自分の小遣いくらいは自分で稼ぎたいと、1年間、クラシックギター教室を開きました。私は、昭和46年4月から昭和48年10月頃までの3年半、毎週1回相崎勝利先生のフラメンコギター教室に通ってフラメンコギターの基本は学んだことがありますが、クラシックギターは、中学3年の時1年間東京音楽アカデミーの通信指導を受けただけで、正式に指導を受けたことはありませんでした。

○然るに知り合いの楽器店等に「気仙沼初のクラシックギター教室開講」なんて大書きした模造紙を貼り付けて貰い、生徒を募集し、多いときは10名以上の生徒を集めて月額2000円の月謝を取ってクラシックギター教室を1年間継続しました。今、思うと指導能力がないのにあると偽る詐欺みたいなものですが、当時は、キチンとレッスンスケジュール表を作り、カルリ・カルカッシ等初心の曲から中程度の曲まで順追って教えるプログラムを元に真摯に教え、詐欺の「故意」はありませんでした(^^;)。

○昭和51年3月まで1年間クラシックギター教室で月額2万円程度の収入を得ましたが、昭和51年4月からはこれも辞めて受験勉強一本槍となりました。その年の3月右耳化膿性中耳炎が再度悪化して毎日耳鼻科通いが続き、炎症が治まった5月に東北大学医学部耳鼻科で右耳の状態を詳しく診察して頂き、7月下旬に東北労災病院で鼓膜生成手術最高権威である湯浅涼医師の手術を受け、これが大成功でその後は61歳の現在まで中耳炎の再発は全くなくなりました。

○昭和51年3月籍だけ残していた大学も卒業し、4月から完全な無職・無収入の浪人となった私は、同年8月には懸案事項であった右耳の手術も終え、全て実家の援助で、正に背水の陣で受験勉強に専念し、翌昭和52年10月、4度目の挑戦でようやく司法試験に合格し、昭和53年4月から当時湯島にあった司法研修所に入所し、司法修習生として給料を貰える身分となりました。初めての給料を貰った当時26歳でしたが、基本給が月額11万4000円でした。初めての給料で、苦労をかけっぱなしだった両親に何か買ったやった記憶はありません(^^;)。

○司法研修所では、千葉県松戸市の寮に住んでましたが、昭和53年7月下旬から実務修習地仙台に移り、鹿野地区の賃料月額2万3000円の6畳一間のアパートに住みました。このアパートには専用バストイレがついて大学時代の間借り部屋に比べて大変贅沢なものでした。給料は各種手当てが付いて手取りでも月額11万円前後あったように記憶しています。同年3月にクレジットで購入した日産サニーのローン返済が月額1万円ほどありましたが、月額11万円前後の手取り収入は私にとっては大金で生活は楽に出来ました。

○この鹿野のアパート時代は昭和54年11月まで続きますが、TVはまだ購入せず、ラジオでの生活でした。この時代、ラジオで放送されていた「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を聴いた記憶は、全く、ありません(^^;)。
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