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”小沢昭一の小沢昭一的こころ”の思い出2

平成24年12月18日(火):初稿
○「”小沢昭一の小沢昭一的こころ”の思い出」にかこつけた私の学生時代の思い出備忘録です。
私は、昭和45年3月東北大学法学部入学試験に落ちて、同年4月文理予備校に入学するため初めて実家を離れて仙台に移りました。仙台では、当時の町名で南光台14丁目にあった普通の家に下宿しました。下宿代は、毎日朝晩2食付きで月額1万3500円だったと記憶しています。下宿先は、一部二階建て住宅で、二階の四畳半二間が下宿人部屋でした。隣の部屋の下宿人は東北大学法学部に現役で入学し2年生になった方で、いかにも学生生活を謳歌していると感じ、私も早くああなりたいと思わせてくれました。

○1年間の浪人生活後、昭和46年4月、ようやく念願の大学生となった私は、予備校時代の下宿を出て、八木山地区の下宿屋さんに移りました。建具店自営の方の家の離れで、車庫の上の洗濯物干し台を改築したその部屋は三畳一間で天井が低く、やや大きな鶏小屋のような部屋でした。確か下宿代は2食付きで月額1万2000円と安かったのですが、天井が低く且つ屋根裏もなくトタン屋根の直ぐ下が部屋となっており、夏の厳しい暑さに耐えられず、秋になると長町駅の南に安い間借り部屋を見つけて、こちらに移りました。間借りと言っても、母屋とは別棟の6畳間が3つ繋がった三軒長屋でした。

○この間借り部屋は三軒長屋の一番奥の部屋で日中も殆ど日の差さない部屋でしたが、部屋代が月額5000円と安く、結局、大学4年時終了まで3年半過ごしました。当時の間借り部屋は、風呂無しトイレ台所共同が多かったのですが、半畳の小さなスペースながら部屋の中に専用台所があり、トイレは共同ながら、近くに銭湯もあり、当時としては生活は便利だったからです。

○予備校に入学してから大学4年時終了までの5年間仙台で生活していたとき,実家からの仕送り額は月額2万円でした。浪人時代は、毎日朝晩二食付き下宿代1万3500円を支払った残りは昼食代には十分でした。昼食は、予備校近くの県庁や市役所の食堂で日替わり定食やカレーライス等が100~150円程度だったからです。大学入学後はこれに月額6000円の特別奨学金と家庭教師等のアルバイト収入を合わせると比較的余裕のある生活で、大学2年の時にはアルバイト収入を貯めて当時の私としては大金の5万円もするフラメンコギターを購入するなどの贅沢も出来ました。

○大学3年の秋から周囲に司法試験受験を宣言し、毎週通っていたフラメンコギター教室も辞め、ギター練習時間もそれまで多いときは1日7,8時間も練習していたものを1時間以内に押さえ、更に3年次終了時には家庭教師等のアルバイトも全て辞め、4年次からは受験勉強一本槍の生活となりました。当時、テレビなどなく、娯楽と言えばラジオとレコードプレーヤーでサビーカスやパコ・デ・ルシア、セラニート等のフラメンコギターを鑑賞するだけでしたが、これも極力制限しました。

○その中で、丁度、夕食前の自炊時間が始まる午後5時45分から始まったのがTBSラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」であり、放送のあるときは毎日欠かさず聞いており、その名調子の声色は今でもハッキリ耳に残っています。先日、「小沢昭一の小沢昭一的こころ 今週のテーマ ~『追悼放送・○○○○○について・・・考える』~」で久しぶりに小沢昭一氏の名調子を堪能しましたが、30数年前と殆ど声質が変わっていないのに驚きました。

「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は、小沢昭一氏82歳の平成23年5月13日に1万回目を迎え、1万回目の週のテーマは「一万回記念、万について考える」だったそうですが、我がHP更新回数1万回目までまだ約6400回の更新が必要です。年365回更新しても10年で3650回、6400回更新には18年以上かかり、その頃まで生きながらえれば80歳近くです。気の遠くなる話ですが、どこまで続くか、あくまで自己満足の精神で続けていきます。

以上:1,618文字

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