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”小沢昭一の小沢昭一的こころ”の思い出

平成24年12月15日(土):初稿
○「ターンタ、タンタ、タッタ、ターンタ、タンタ、タンタ」なんてカタカナ文字を並べても、文字ではメロディを表現出来ませんので、なんのことか判らないでしょうが、「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の三味線による最初のテーマ音楽を表現したつもりです(^^)。「小沢昭一の小沢昭一的こころ 今週のテーマ ~「小沢昭一の小沢昭一的こころ 今週のテーマ ~『追悼放送・○○○○○について・・・考える』~」を開くと、小沢昭一氏の「小沢昭一の小沢昭一的こころ」の平成22年12月10日から14日まで5日分の放送録音を聴くことが出来ます。

「小沢昭一の小沢昭一的こころ」はウィキペディアでの解説によると「『小沢昭一の小沢昭一的こころ』(おざわしょういちの おざわしょういちてきこころ)は、1973年(昭和48年)1月8日に開始した小沢昭一のモノローグ冠番組。長寿番組の一つ。(中略)
『森繁の重役読本』(1962年(昭和37年)3月~1969年(昭和44年)4月)の後継番組として企画された[3]。小沢が“口演”と称し、週代わりのテーマ(「○○について考える」)に沿って、軽妙な話術で物語る。扱うテーマは時事問題から下ネタまで幅広く、永年の固定ファンが多い。2011年(平成23年)5月13日に放送10,000回を迎えた。毎週月曜日に翌週分の収録が行われていた。
」とあります。

○昭和46年4月にようやく大学1年生になった私は、昭和48年1月8日は、大学2年生の3学期が始まる時でした。その頃、私は仙台市のJR長町駅から徒歩5~10分位南西方向にある3軒長屋の一角に住んでいました。6畳一間に半畳の台所がついたトイレ共同、風呂無しで1ヶ月部屋代5000円の部屋での自炊生活でした。

○当時は,現在のように豊富な種類のお弁当を販売するコンビニなんて全くありませんでしたから、食事の基本は自炊で月・木が肉野菜炒め定食、火・金がごちゃ混ぜチャーハンと決まっていました。水、土は家庭教師先でご馳走になり、日曜日だけ外食として、長町南駅近くにあった「叶や長町店」でニラレバー炒め定食を食べるのがサイクルとなっており、几帳面にこのサイクルを守っていました。

○大学3年即ち昭和48年6月頃までは、フラメンコギターに熱中し、毎日少なくとも3時間程度、日曜日など休みの時は7,8時間もフラメンコギター練習に明け暮れていました。当然学業には力が入っていませんでしたが、昭和48年6月、力を入れて臨んだフラメンコギター発表会で大失敗の惨めな演奏をしてギターのみならず我が能力に失望しました。あれほど練習を積み重ねたのにこんな演奏しかできないのか、オレはダメな人間だとひどく落ち込みました。

○そのためその後ギター練習に身が入らなくなり、しばし考えた末、今後の人生司法試験にかけると決意し、それを周囲に宣言し、大学3年の夏休みから、自分としては本格的な受験勉強を開始したつもりでした。2件やっていた家庭教師のアルバイトも大学3年終了と同時に辞めて大学4年からは、正に勉強一筋の修行僧のような生活に入ったつもりでした。

○この仙台での受験勉強時、唯一の楽しみが「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を聴くことでした。当時は毎日午後5時45分から10分程度の放送だったと記憶しています。丁度自炊の食事作りの時間帯で台所近くに携帯ラジオを置いてこの放送を聴きながら肉野菜炒めなどを作ったことを昨日のことのように覚えています。聴いた期間は、昭和48年後半から、郷里気仙沼に帰る昭和50年3月までの1年半くらいですが、冒頭の三味線メロディーと小沢昭一氏の名調子を聴き入りながらの僅か半畳のスペースに小さな流し場と小さなガスコンロ、極小調理台がついた台所を懐かしく思い出しています。

○この「小沢昭一の小沢昭一的こころ」その後継続していることは知っていましたが、何と23年5月13日1万回を迎え、更に平成24年9月まで続き、同年12月10日、小沢昭一氏の死去によって終了になりました。以下、小沢昭一氏の備忘録としてニュースを掲載します。放送回数は最終的には1万0414回とのことですが、それに比較して我がHP更新回数平成24年12月14日現在3606回はまだまだ序の口で、小沢昭一氏とその偉業に合掌です。

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小沢昭一さん死去 ラジオ番組39年1万回
 [2012年12月11日7時16分 日刊スポーツ紙面から]


 味わい深く、軽妙な語り口で親しまれた俳優小沢昭一(おざわ・しょういち)さんが、10日午前1時20分、前立腺がんのため、都内の自宅で死去した。83歳。98年に前立腺がんが発見され、10年には頸椎(けいつい)に転移。治療しながら仕事をしていたが、8月から入退院を繰り返し、10月の退院後は自宅で静養していた。

 小沢さんが、静かに天国に旅立った。所属事務所によると、亡くなった際には、妻英子さん1人が寄り添っていたが、近所に住む長男と長女は間に合わなかった。静かに眠るように亡くなったようだと説明した。

 98年に前立腺がんが見つかり、10年には頸椎に転移していることが分かったが、入院せず放射線治療などを行っていた。同事務所は、転移には動揺を感じさせずに淡々とした様子だったと説明した。今年8月15日には猛暑の影響で、体力が落ちたことから25日まで入院した。体調が回復したように見えたが、9月に入ると、食事ができなくなり、同13日に再入院。所属事務所は「1、2週間様子をみるための入院で再入院後は病院内を歩き、コンビニにも出かけていました」と説明した。

 体力も順調に回復したように見え、小沢さんも自宅に帰りたがっていたことから、10月22日に退院した。退院の際は、喜んで自分で歩いてタクシーに乗り、自宅に戻ったという。退院したのは、自宅に医師が定期的に診療に来るなど、介護の体制が整えられてたのも理由の1つ。小沢さんは愛妻のもとで静養していたが、帰らぬ人となってしまった。所属事務所によると、最近は体力が落ちた様子だったが、誰も亡くなるとは思っていなかったと、説明した。

 小沢さんは、73年1月からTBSラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」(月~金曜、午後0時20分)のパーソナリティーを務め、軽妙な一人語りが人気を集めていた。番組は9月24日の放送から休み、傑作選など再放送の形で番組を継続し、今月7日まで1万410回の放送となっていた。11月16日には同5日に小沢さんの自宅で収録した内容も放送。「お休みしている今は、心にぽっかりと、穴があいているような、そんな空(くう)な感覚もあるんですね。ですから、早く元気になって、この心の空の穴を、みなさんと埋めていきたい、そう思うんであります。よろしく。また明日のこころだぁ~」。これが、最後の仕事、リスナーへの最後の言葉となった。

◆小沢昭一(おざわ・しょういち)1929年(昭4)4月6日、東京生まれ。早大文学部仏文科在学中から俳優座養成所に入り、52年に初舞台。54年ごろから映画、ラジオ、テレビに多数出演。73年、ラジオ「小沢昭一的こころ」放送開始。映画の代表作は「幕末太陽傳」「猫が変じて虎になる」「人類学入門」「にっぽん昆虫記」など。75年から5年間、劇団「芸能座」主宰、82年に「しゃぼん玉座」創設。民衆芸能の研究にも熱心で「日本の放浪芸シリーズ」は日本レコード大賞企画賞。94年紫綬褒章、01年旭日小綬章受章。
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