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心から畏敬するA弁護士生涯の”我が法典”紹介2

平成24年 2月20日:初稿
○「心から畏敬するA弁護士生涯の”我が法典”紹介」の続きです。
A弁護士が大学生時代に作成し生涯の目標として実践された「我が法典」の第2段です。「毎日必ず守るように努めること」とした、50条の「我が法典」に続けて、「以下にあげる言葉は、苦しいとき、困難におちいったとき、失敗したとき、あるいはどうしてよいかわからないときに必ずやよき指針を与えてくれるであろう」と記載されていました。

○「私が心から畏敬するA弁護士紹介序文」記載の通り、およそ40年前にA弁護士が、当時榴岡にあった宮城県立図書館の懸命に勉強に勤しんでいた頃作成したものと思われますが、「一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値を持たなくてはならない。」との指針通り、彼は、弁護士になってからも、正に「一に努力、二に努力、三、四がなくて五に努力」の人でした。何件か共同で事件を受任しましたが、どの事件も全力で取り組み、相当の時間をかけて徹底的に調べ上げて詳細な準備書面を用意していました。

○「鍛えぬかれた人間は、めったなことでは音をあげない。そこには艱難の道を克服してきた、不動の信念が築きあげられているからである。」とは、彼の生き方に合致しますが、激務に疲れ、身体が休みたいと言っているとき、時には「音を上げて」ゆっくり休むことを、生前にして頂きたかったとの思いもするところです。

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A弁護士作成「我が法典」2

以下にあげる言葉は、苦しいとき、困難におちいったとき、失敗したとき、あるいはどうしてよいかわからないときに必ずやよき指針を与えてくれるであろう

いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値を持たなくてはならない。

人の長所やよさを認めたくないのは、自分で自分を認めたいからである。ところで、他を認めない努力を続けていくと、どこへ行ってもおびやかされていらいらし、しまいにはそれがいやさに自分の小さい殻に閉じこもってしまうほかなくなる。心機一転して他のいいことはすべて認めるとしたら、じつに楽な、ひろびろした、自由な心になる。認めることによって人が育ち、そうすることによって、知らずしらず自分も育つのである。

誰しも人を許すときが、自分を最も高めるときである。

知るを知るとし、知らざるを知らずとせよ、これ知るなり。

人間のことは考えるな、事柄を考えよ。

友人の欠点だけを考えている人たちがいる。そこからはどんな利益もうまれてこない。わたしはいつも敵の価値に注意を向けてきた。そしてそのことから利益をうけた。

人は本当に劣悪になると、他人のふしあわせを喜ぶこと以外に興味をもたなくなる。

過去を軽蔑して新しい創造はない。過去を生かさなければならない。

何人にも悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって。

見えざる敵(=自分自身)を恐れよ。

いかなる時も何処にあろうとも、燦爛たる太陽のごとく明朗に、大空を翔る若鷲のごとく闊達に、大海のごとく包容力豊に、然して時来らば決然として起ち、疾風怒濤のごとく邪悪と戦う青年であれ。

自分はだれの力も借りず、自分の力で生きている。だれの世話にもならず、したがって頭を下げることもない。こういう考え方をもつとしたら、その瞬間からその人は荒涼殺伐とした争いのなかに身を投じることになりましょう。

あらゆる人間的性質の中で嫉妬は最も厭わしいもの、虚栄心は最も危険なものです。

恵まれた生活も結構だし、恵まれない生活も結構、何事も結構という気持ちにならないと人間は大きくなれないと思う。

多言なればしばしば窮す。

賢者は耳長く舌短し。

忙しければ忙しいほど意欲を燃やして、それに打ち込んでゆくことが、人生の幅を広げ内容を充実させ、小ものの境地から脱却する道である。

遭遇した事象はことごとく、これをよろこびにとり、前向きの姿勢で対処するところに道は開ける。すでに現れてしまったことを不足に思ってみても、ものごとが好転するものでもなかろう。だいたいにおいて、不足を思う人物は、大人の器ではない。

目上の者が自分を理解してくれなければ、理解してもらえるような自分になろうとする。計画通りに事が運ばなければ、運ぶように手段方法を考える。そこに反省があり、創意があり、努力がある。しかも、それをたのしみながらやっていく。その行為(表現)が自己の進歩向上となり、人間力の造成開発となって、おのずから人間が大きくなっていくのである。

鍛えぬかれた人間は、めったなことでは音をあげない。そこには艱難の道を克服してきた、不動の信念が築きあげられているからである。

海岸の松と庭園の松を比べてみるがよい。手入れのゆきとどいた庭園の松は、枝振りも見事に、葉も幹もきれいに洗い磨かれている。なるほど見た目には、なかなか美しい松の木である。だが、その美しさは作られた美しさであり、どことなく人間の手により保護されているという弱々しさが漂っている。この庭園の松に対し、海岸の松の厳しさはどうであろうか。厳石の如き幹は、長年の潮風に鍛えぬかれ、彫像の如き相を呈している。霜雪に耐えぬいた根は、砂中深く微動だにしない。砂風をかい潜って生き抜いた枝ぶりは、天地自然の妙味を中空に描いている。庭園の松は、人間に鑑賞されるのみであるが、海岸の松は、人間に生きることの厳しさ尊さを教えてくれる。海岸の松のこの厳しさこそ艱難苦斗の歴史を物語っているのである。

人間の真価は恵まれぬ環境を大災難と感じて泣きごとを言うか、これを大艱難として、欣然として迎え入れるかによって定まるのである。

艱難は明日への飛躍台である。如何につらくても、その苦しみは、諸君の血となり、肉となり、骨となって諸君の抱く玉を磨いてくれるのである。

利己主義者には友人はできない。自己の主張を絶対に曲げないという人間は、相手の立場や主張を認めようとしない。こういう人間は孤立し、一生よき友をみい出すことはできないだろう。よき友をうる第一は、相手の長所短所を認識し理解するところにある。特に短所に目をつぶっていては、心の底から友情というものは湧いてこないものである。
以上:2,546文字

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